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(History of Iran)イラン史リサーチ ──イラン側の視座から学ぶ歴史叙述

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本資料について

私達はイランを知らない──日本語圏で読めるイラン関連の情報は、西側メディア経由のものに偏っている。本資料は、イラン側が自国の歴史をどのように語り、記憶しているかを、検証可能なソースから再構成したものである。特定の立場を支持するものではない。本資料は出発点であり、結論ではない。必ず参考文献の一次資料にあたり、ご自身の判断で検証されたい。

本資料は、複数のAIモデル(Claude, Mistral, GPT)を調査補助ツールとして活用し、人間の編集者が構成・統合・ソース確認を行ったものである。AIモデルによるリサーチには、ソースの誤引用、文脈の圧縮による意味の変容、存在しないURLの生成(ハルシネーション)等のリスクが内在する。公開にあたり全ソースの生存確認と主要な引用内容の照合を行っているが、すべての原文を網羅的に精読・検証したものではない。

本資料は「イラン側の視座から歴史を語る」ことを目的に設計されているが、その記述を裏付けるソースの構成は以下の通りである。

ソース種別 件数
イラン政府・公式機関(Khamenei.ir, Tehran Times, PressTV等) 27
イラン系メディア・文化サイト 10
在外イラン人・ディアスポラ研究 1
学術・百科事典(Encyclopaedia Iranica, Britannica等) 28
シンクタンク・政策研究(Carnegie, RAND, Brookings等) 12
人権団体・市民社会 6
報道機関(Al Jazeera, Foreign Policy, Time等) 26
歴史・文化・教育 4
Wikipedia 12
米国公式資料(CIA機密解除文書、国務省FRUS、大統領声明、国防総省報告、議会記録等) 18
その他 3
147

すなわち、本資料は「イラン側の歴史認識」を主題としつつも、その裏付けの過半は西側の学術・シンクタンク・報道機関による検証可能なソースに依拠している。「イラン国内の教科書的記述の翻訳」ではなく、「イラン側がどのように歴史を語り、記憶しているかを、多角的ソースから再構成した調査資料」として読まれたい。

なお、米国公式資料(CIA機密解除文書、国務省外交史シリーズ〈FRUS〉、大統領声明、国防総省報告書、議会記録等)からの情報を [米国公式] タグで追記している。これは既存の [IRI公式] [学術] [分析] 等と同列に並置されるものであり、特定の立場を優先・劣後させるものではない。米国公式資料が該当しないセクション(Part A全体および B-1)には追記していない。

各記述には語り手タグ([IRI公式] [イラン学術] [在外イラン人研究者] [西側学術] [学術] [分析] [歴史的事実] [米国公式] 等)を付与しており、誰の視座からの記述かを明示している。


Part A: 文明と国家アイデンティティ

A-1. アケメネス朝とキュロス大王

キュロスの円筒碑文──「世界最古の人権宣言」としての位置づけ

[IRI公式] イラン・イスラム共和国は、キュロスの円筒碑文を「世界最古の人権に関する文書」として国際的に位置づける努力を続けている。2025年11月、ユネスコ第43回総会(サマルカンド)において、イラン・タジキスタン・イラクの共同提案により、キュロスの円筒碑文が「人権に関連する原則を体現した最初期の文書の一つ」として全会一致で承認された。イラン国立博物館館長ジェブラエール・ノカンデは「この承認は、歴史を歪曲する者たちに対する確固たる証拠であり、世界文明の形成におけるイランの建設的役割を示すものだ」と述べた。
(出典: Tehran Times, “UNESCO recognition of Cyrus Cylinder highlights Iran’s role in human rights”, 2025年11月9日, https://www.tehrantimes.com/news/520174/UNESCO-recognition-of-Cyrus-Cylinder-highlights-Iran-s-role-in

[IRI公式] イラン国営メディア Pars Today は、キュロスの円筒碑文について「2600年以上前にイラン人が人権を重んじていたことを示す歴史的文書」と位置づけ、パサルガダエ世界遺産センター長モハンマド・ナシリー・ハギーガットの「この碑文は、イラン人が26世紀前から人権を尊重していたことを歴史的文書として示している」という発言を報じた。円筒碑文の内容について、同報道は「すべての人々に自分の神を崇拝する自由を与え、破壊されたものを再建し、圧政を容認しなかった」というキュロスの言葉を引用している。
(出典: Pars Today, “The Cyrus Cylinder: Iran’s historical gift for global peace”, 2025年11月20日, https://parstoday.ir/en/news/iran-i240032-the_cyrus_cylinder_iran’s_historical_gift_for_global_peace

[在外イラン人研究者] Ajam Media Collective の分析によれば、キュロスの円筒碑文の「人権宣言」としての読みは、20世紀のイラン政治が生み出した近代的構築物である。モハンマド・レザー・シャーが碑文を「すべての宗教の擁護者」として提示し、その帝国的文脈を取り除いて宗教的自由の象徴に作り替えた。1968年に国連人権会議で碑文を普遍的人権宣言の先駆けとして提示したのは、国際社会から強まる自身の権威主義的統治への批判をかわすためでもあった。学術的には、碑文はメソポタミアの王が即位時に行う政治的宣言文の一種であり、「人権に関する異例の宣言」を含むものではないとされる。
(出典: Ajam Media Collective, “Reconstructing a Persian Past”, 2013年6月6日, https://ajammc.com/2013/06/06/reconstructing-a-persian-past-contemporary-uses-and-misuses-of-the-cyrus-cylinder-in-iranian-nationalist-discourse/

[西側学術] 古代近東史の専門家 Bill T. Arnold と Piotr Michalowski は「碑文はジャンルとして他の基礎奉納碑文に属するものであり、いかなる種類の勅令でもなく、時として主張されるような異例の人権宣言を含むものでもない」と評価している。エディンバラ大学の Lloyd Llewellyn-Jones も「テキストには人権の概念を示唆するものは何もない」と指摘している。一方、大英博物館館長 Neil MacGregor は、碑文がイランの歴史と結びついていることは認めつつも「真の意味でイランの文書ではなく、古代近東、メソポタミアの王権、ユダヤ人ディアスポラのより大きな歴史の一部である」としている。
(出典: Wikipedia, “Cyrus Cylinder”, 各学者の引用)

[イラン国内世論] イラン国内では、学術的議論とは別に、円筒碑文はイラン人の文化的アイデンティティの象徴として広く受け入れられている。2010年に大英博物館からイラン国立博物館に貸し出された際、当時のアフマディネジャド大統領は開幕式でイスラーム共和国のシンボリズムと古代ペルシャのシンボリズムを混合させ、キュロスの理念がイスラームの預言者たちの理念と異ならないと述べた。この発言はイラン国内外の一部から宗教ナショナリズムへの露骨なアピールとして批判された。
(出典: Al Jazeera, “The story behind the Cyrus Cylinder”, 2013年4月25日, https://www.aljazeera.com/features/2013/4/25/the-story-behind-the-cyrus-cylinder

ペルシャ帝国2500年祭(1971年)

[パフラヴィー朝公式] 1971年10月12〜16日、モハンマド・レザー・シャーはペルセポリスで「ペルシャ帝国2500年祭」を開催した。60名以上の国家元首・王族を招き、紀元前550年のキュロス大王によるアケメネス朝建国から2500年の歴史を祝うものだった。シャーはパサルガダエのキュロス廟で「おお、キュロス大王よ、安らかに眠れ、我々が目覚めているから(Rest in peace, for we are awake)」と演説し、自らをキュロスの後継者として位置づけた。式典の公式ロゴにはキュロスの円筒碑文が使用され、シャーは碑文を「史上初の人権憲章」として繰り返し言及した。
(出典: Wikipedia, “2,500-year celebration of the Persian Empire”; Queen Farah Pahlavi公式サイト, https://farahpahlavi.org/iranian-monarchy/

[IRI公式] イスラム共和国の立場からは、この2500年祭はシャーの退廃と人民からの乖離を象徴する事件として語られる。ホメイニ師は「彼らが火星やミルキーウェイの彼方に行こうとも、真の幸福、道徳的美徳、精神的向上を奪われたままであり、自らの社会問題を解決することはできない」と批判した。革命後、ペルセポリスのテント都市は略奪され、この祝典はパフラヴィー朝の浪費と専制の象徴として教育に組み込まれた。
(出典: Alimentarium, “The most expensive party ever”, https://www.alimentarium.org/en/magazine/history/most-expensive-party-ever

[在外イラン人研究者] Abbas Amanat(イェール大学)は著書 Iran: A Modern History で、この祝典をパフラヴィー朝のイデオロギー構築の中心的事件として分析している。Talinn Grigor は、祝典がイランの君主制をペルシャの古代君主たちと結びつけ、特にキュロスと同一視する装置として機能したと指摘している。大英博物館の解説は、キュロスの円筒碑文が「約100年間は古代メソポタミアのプロパガンダとみなされていたが、1971年にイラン国王が2500年の王政を祝う自らのプロパガンダの中心的イメージとして使用したことで変化した」と記している。
(出典: Cabinet Magazine, Oxford, “Rest in peace, for we are awake”; British Museum explanatory notes)

イスラム共和国とアケメネス朝の遺産

[IRI公式/分析] イスラム共和国のアケメネス朝遺産に対する態度は、排除と部分的継承の間で変遷してきた。革命直後の1980年代にはイスラーム的正統性に依拠し、前イスラーム的シンボル(アーシュラー儀式、モスク、ヴェール)を正統性の基盤とした。しかし元アフマディネジャド顧問のアブドルレザー・ダヴァリーによれば、イスラーム共和国の公式宗教の正統性危機と宗教的信仰の衰退が進む中、体制は文化的正統性の基盤を再構築しようとしている。「1980年代には体制は宗教的正統性に依拠していたが、今日では前イスラーム的遺産から引き出されたシンボルも含めて国民的統一を促進しようとしている」。ダヴァリーによれば、イスラム共和国の権力の源泉はもはや「イスラーム国民」ではなく「イランの歴史と血」になりつつある。
(出典: INSS, “From Islamic Republic to Iranian Republic”, 2025年12月2日, https://www.inss.org.il/publication/iranian-republic/

[報道:Iran International] イラン政府は前イスラーム的伝統・儀式・文化遺産から人々を遠ざけることを組織的に試みてきた。パサルガダエやペルセポリスへの「キュロス大王の日」(10月29日)の訪問を頻繁に禁止してきた。しかし近年、この記念日は若いイラン人の間で着実に広がっており、一部の保守強硬派はこれを体制の敵と亡命君主主義者がイスラム革命の原則を弱体化させる試みだと主張している。
(出典: Iran International, “Thousands Of Iranians Visit Persepolis”, 2024年3月24日, https://www.iranintl.com/en/202403233495

A-2. ササン朝とイスラーム化(7世紀)

アラブ征服のイラン側の記憶

[在外イラン人研究者] Khodadad Rezakhani(History Today への寄稿)は、ササン朝の滅亡が「イランのイスラームとアラブへの従属の始まりとして、国家的失敗として今なお記憶されている」と指摘する。ただし、ササン朝の「イーラーンシャフル(イラン人の領域)」を近代のイラン国家と同一視することはできない、とも注記している。「イスラームの征服によりイスラームが全ササン朝住民に受容または強制された」という通説と、「ペルシャ語の存続は奇跡的事象であり、すべての人がアラビア語を採用したイスラーム世界における唯一無二の現象である」という通説の双方について、Rezakhani は「薄弱で根拠のない主張に見える」と述べている。
(出典: History Today, “Arab Conquests and Sasanian Iran”, 2017年4月号, https://www.historytoday.com/archive/arab-conquests-and-sasanian-iran

[イラン学術/国内叙述] イラン国内の歴史叙述では、アラブ征服は「破壊的」であったとする記述が一般的である。イランの観光・文化系サイト Destination Iran は「イラン人はササン朝軍の敗北後のアラブによるイラン侵攻の破壊を目の当たりにした」と記し、「アラブ人は新しい信仰への招きを拒否したイランの王たちへの報復として征服を開始した」「ゾロアスター教徒は祖国で改宗しないことへの税金を支払わなければならなかった」と描写している。一方で「ササン朝の行政機構の規律・秩序・統一の欠如が、アラブのイラン征服への道を開いた」「上層階級の腐敗を見た下層階級のイラン人は既存の状況を守る理由を見出さなかった」とも記述しており、ササン朝内部の崩壊と外部からの征服の両面を認識する立場をとっている。
(出典: Destination Iran, “Arabs’ Invasion of Iran”, https://www.destinationiran.com/history-destructive-arabs-invasion-of-iran.htm

[Encyclopaedia Iranica] Michael G. Morony の Encyclopaedia Iranica への寄稿によれば、「ムスリムによるイランの征服は、イランの君主制的伝統の衰退──ただしムスリム・アラブ支配者に採用された範囲を除く──とゾロアスター教徒への政治的支援の喪失を意味した」。ペルシャ軍は主要な戦闘(カーディスィーヤ、ネハーヴァンド)でムスリム軍より数的優位にあり、勇敢に戦い、ムスリムの進出に激しく抵抗した。征服後も多くの地域(ギーラーン、タバレスターン、バルーチスターン等)は恒久的に支配されることはなかった。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “ʿARAB ii. Arab conquest of Iran”, https://www.iranicaonline.org/articles/arab-ii/

[Encyclopaedia Iranica] イスラーム期イランの経済・行政に関して、Encyclopaedia Iranica は「アラブ人がエジプト、シリア、イラク、ペルシャなどを征服したとき、イスラームはこれらの地の人々の必要と願望にも応えうるよう発展しなければならなかった。マワーリー(非アラブ改宗者)は、イスラーム文化を国際的・コスモポリタンなものに変容させる非常に重要な要因となった。このプロセスにおいて、長い行政経験を持つササン朝の慣習・法・伝統が、土地測量、徴税、貨幣鋳造、裁判官の任命、カリフと地方長官の宮廷儀礼などの事項において、イスラーム東方で大部分採用された」と記述している。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “IRAN ii. IRANIAN HISTORY (2) Islamic period”, https://www.iranicaonline.org/articles/iran-ii2-islamic-period-page-1/

ペルシャ語・文化の存続

[在外イラン人研究者] イラン系研究者による分析では、征服されたにもかかわらずペルシャ語が存続したのは「ペルシャ人が自らのアイデンティティを捨てることを拒否し、それがペルシャ語の保持を伴った」ためとされる。征服後200〜300年をかけてイラン人の大半は徐々にイスラームに改宗したが、ペルシャ語・文化的記憶は深く根を残した。ある記述では「7世紀にアラブ人に征服されたすべての民族の中で、征服以前に使用していた固有言語で主要な文学を誇ることができるのはペルシャ人だけである」とされ、エジプトの歴史家に「なぜエジプト人の大多数がコプト語ではなくアラビア語を話すのか」と尋ねたところ「我々にはフェルドウスィーがいなかったからだ」と答えた、というエピソードが引用されている。
(出典: Fitzwilliam Museum, Cambridge, “Ferdowsi: the Poet and the Legend”, https://shahnameh.fitzmuseum.cam.ac.uk/ferdowsi

[在外イラン人研究者/学術] Sonia Nour の論文(SSRN, 2025年)は、アラブ征服後にイランが直面した政治的従属と文化的圧力にもかかわらず、「イラン人は自らの言語、歴史的叙述、文化的慣行を維持し、文学的復興への道を開いた」と分析している。シュウービーヤ運動(アラブの文化的優位性に対する非アラブ・ムスリムの抵抗運動)とサーマーン朝がペルシャ文学の支援とナショナル・アイデンティティの強化に中心的な役割を果たしたとされる。
(出典: Sonia Nour, “Ferdowsi, the Shahnameh, and the Preservation of Iranian Identity”, SSRN, 2025年, https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=5537401

フェルドウスィー『シャー・ナーメ(王書)』の文化的位置づけ

[在外イラン人研究者/学術コンセンサス] フェルドウスィー(940〜1025年頃)による『シャー・ナーメ』(約6万の対句)は、イランの神話的始まりからアラブ征服までの歴史を叙述した叙事詩であり、ペルシャ語によるナショナル・アイデンティティの最も重要な文化的装置とされる。ケンブリッジ大学フィッツウィリアム博物館の解説によれば、「フェルドウスィーはペルシャ語と前イスラーム的イランの文化的アイデンティティの保存者として広く認められている」。その作品はアラビア語の影響が最小限に抑えられた純粋なペルシャ語で書かれ、ペルシャ語を文学的媒体として確立し、イランの古代の栄光、政治倫理、文化的アイデンティティについての知識を生かし続けた。
(出典: Fitzwilliam Museum, “The Shahnameh: a Literary Masterpiece”, https://shahnameh.fitzmuseum.cam.ac.uk/literary

[イラン国内学術/ナショナリズム] イラン国内では、『シャー・ナーメ』はアラブ征服に対する「文化的抵抗」の書として位置づけられている。ペルシャ文学教授レザーザーデ・シャファグは『シャー・ナーメ』を「アラブ征服とアラビア語のほぼ勝利に対する反応としてのナショナル・アイデンティティの標章」と宣言し、教育者にその国民意識とフェルドウスィーの「言語浄化」の理念を教室で促進するよう奨励した。レザー・シャー・パフラヴィー自身もトゥースのフェルドウスィー廟の除幕式で「イラン人はペルシャ語の復興者として彼に大きな感謝を負っている」と述べた。
(出典: Iran 1400 Project, “Molding the Language of Nationalism in Three Recent Periods in Iran”, https://iran1400.org/content/molding-the-language-of-nationalism-in-three-recent-periods-in-iran/

[学術] Tandfonline に掲載されたペルシャ語 Twitter 調査論文(2024年)によれば、シーア派ムスリム、スンニ派ムスリム、非ムスリム少数派を含むイラン人の間で、「フェルドウスィーと『シャー・ナーメ』がイランを地理的に統一し、イスラーム的反ナショナリズム・アイデンティティに対する文化的・世俗的ナショナル・アイデンティティを形成する上での役割」について全会一致の合意が見られた。
(出典: Tandfonline, “Myth and epic as a non-religious revival of national identity”, 2024年, https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/14608944.2024.2372597

A-3. サファヴィー朝とシーア派国教化(1501年〜)

シーア派がイランの国家宗教になった経緯

[西側学術/コンセンサス] Britannica によれば、サファヴィー朝(1501〜1736年)は「十二イマーム・シーア派を国教として確立したことが、国内のさまざまな民族的・言語的要素の間に統一的な国民意識が生まれる主要な要因となった」王朝である。サファヴィー朝はスーフィー教団(サファヴィーヤ教団)を起源とし、当初はスンニ派(シャーフィイー学派)であったが、時間の経過とともにシーア派に傾斜し、四代目指導者シェイク・ジュナイドの時代に明確にシーア派となった。
(出典: Britannica, “Safavid dynasty”, https://www.britannica.com/topic/Safavid-dynasty

[学術/Iranologie.com] サファヴィー朝はイランの歴史において「文化的・政治的復興」を導いた王朝と見なされており、「数世紀にわたる分権的政治体制の後に、イラン(イーラーンシャフル)という社会政治的実体に属する諸領土を統一した『復興者』」と位置づけられている。イスマーイール1世は1501年にタブリーズを征服し、十二イマーム・シーア派を支配領域の公式宗教と宣言した。
(出典: Iranologie.com, “The Safavid Dynasty”, https://iranologie.com/the-history-page/the-safavid-dynasty/

[学術] サファヴィー朝による改宗は強制的な側面を伴った。イスマーイール1世は征服後、大部分がスンニ派であった住民に改宗を義務づけ、スンニ派のウラマーは殺害または追放された。シーア派の宗教指導者を外部から招き、土地と資金を与えて忠誠を確保した。Wikipedia によれば「3世紀にわたりサファヴィー朝はスンニ派ムスリム、ユダヤ人を激しく迫害した」。しかし、この国教としての確立がイランの内的結束と国民感情の双方を固め、同時にスンニ派の近隣諸国からの攻撃を招くことにもなった。
(出典: Wikipedia, “Safavid conversion of Iran to Shia Islam”; LibreTexts, “Safavid Empire”)

十二イマーム・シーア派とイラン・ナショナリズムの関係

[学術/Wikipedia] サファヴィー朝以降の500年間、「イラン人のシーア派アイデンティティは、アーシュラー(イマーム・フサインの死を悼む行事)とノウルーズ(イランの新年)の同時的遵守に基礎を置いており、この組み合わせはサファヴィー朝の下で確立された」。サファヴィー朝は先行するアク・コユンルと同様に「シャーハンシャー(王の中の王)」の称号を使用し、国家的統一とシーア派的アイデンティティの融合が近代イラン国民国家の基盤を形成した。
(出典: Wikipedia, “Safavid dynasty”, https://en.wikipedia.org/wiki/Safavid_dynasty

[在外イラン人研究者/分析] Grokipedia のイラン・ナショナリズム概要によれば、「革命後のイスラーム共和国のイデオロギーはシーア派の例外主義とナショナル・アイデンティティをさらに統合し、イランを『神に選ばれた国家』として描き、シーア派がイランの本質と本質的に一致するとし、スンニ派イスラームを後進的なアラブの部族主義と関連づけつつ、正統性の連続性を主張するために前イスラーム的なゾロアスター教やアケメネス朝の遺産を選択的に承認した」。
(出典: Grokipedia, “Iranian nationalism”, https://grokipedia.com/page/Iranian_nationalism

カルバラーの物語のイラン文化における機能

[IRI公式] Tehran Times は「アーシュラーはイランのアイデンティティの不可分の一部である」と題する記事で、カルバラーの物語がイラン革命において直接的に政治化されたことを詳述している。1963年6月の演説でホメイニ師はシャーをヤズィード(イマーム・フサインの殉教の責任者であるウマイヤ朝カリフ)に比喩し、「今日はアーシュラーの晩である」と述べた。シャーは広く「現代のヤズィード」と見なされるようになり、このことが政権の正統性を深刻に損なった。イマーム・フサインのスローガン「屈辱には決して従わない(هیهات منا الذله)」は革命のモットーとなった。
(出典: Tehran Times, “Ashura is integral part of Iranian identity”, 2020年8月25日, https://www.tehrantimes.com/news/451727/Ashura-is-integral-part-of-Iranian-identity

[分析] カルバラーの物語はイラン・イラク戦争(1980〜1988年)においても動員の中心的装置として機能した。シカゴ大学図書館の戦争ポスター分析によれば、「ポスターはイランのアーシュラー追悼儀式を利用し、兵士たちがカルバラーの殉教者たちの道を歩んでいると認識させるよう促した」。赤と緑の色のコントラストはイラン人にとって深い象徴的意味を持ち、赤はフサインと殉教者たちの血を、緑はムハンマドとフサインの双方を示す。
(出典: University of Chicago Library, “A New Battle of Karbala”, https://www.lib.uchicago.edu/collex/exhibits/graphics-revolution-and-war-iranian-poster-arts/new-battle-karbala/

[分析/2026年] ModernGhana に掲載された2026年3月の分析記事は、「イランの宗教的アイデンティティの中心にはカルバラーがある」と述べ、「フサインの死は敗北として記憶されていない。それは道徳的勝利として記憶されている」「シーア派ムスリム、特にイランにおいて、カルバラーは遠い悲劇ではない。それは生きたパラダイムである」と分析している。フサインの物語は毎年、説教、挽歌、受難劇、公開行列の中で語り直され、詩、政治的言説、個人倫理の中に織り込まれている。
(出典: ModernGhana, “Iran, Ashura, and the Logic of Martyrdom”, 2026年3月2日, https://www.modernghana.com/news/1475321/iran-ashura-and-the-logic-of-martyrdom-understa.html

A-4. イラン人のアイデンティティの複層性

「ペルシャ」と「イラン」──外名と自称の関係

[歴史的事実] 「ペルシャ(Persia)」は外名(エクソニム)であり、ギリシャ語でアケメネス朝の中心地域パールス(ファールス)を指す語に由来する。「イラン」は自称(エンドニム)であり、「アーリア人の地」を意味する。この語はゾロアスター教の聖典、中期ペルシャ語の碑文に組み込まれ、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』で不滅のものとなった。
(出典: Wikipedia, “Name of Iran”, https://en.wikipedia.org/wiki/Name_of_Iran

[歴史的事実] 1935年3月21日(ノウルーズ)、レザー・シャー・パフラヴィーは外国の外交使節団に対し、公式文書で「ペルシャ」ではなく「イラン」を使用するよう正式に要請した。イラン政府の公式文書では、これは単なる文体の変更ではなく「語源的・歴史的な不正確さの是正」とされ、「ペルシャ」の継続的使用が「弱さ、無知、悲惨、独立の欠如、無秩序な状態、無能力」という──19世紀のレザー・シャー体制が消し去ろうとしてきた──外部から押しつけられた連想を喚起すると主張した。
(出典: Iran So Far Away (Substack), “From Persia to Iran: Distortion of the 1935 ‘Name Change’”, 2025年5月25日, https://iransofaraway.substack.com/p/from-persia-to-iran-distortion-of

[学術] 1959年、最後のシャーであるモハンマド・レザー・パフラヴィーは、著名な学者エフサン・ヤルシャーテルが率いる委員会の勧告を受けて、公式文書で「ペルシャ」と「イラン」の両方を使用することが適切であると発表した。しかし、この提案の実施は不完全に終わった。Dana Pishdar(Zana Vahidzadeh)は、1935年の名称変更が「単なる外国の命名慣行の変更以上のものであり、その地域の長い歴史に深く根ざしたナショナル・アイデンティティの取り戻しを表していた」と指摘している。
(出典: Wikipedia, “Name of Iran”)

イスラーム以前の文化的誇りとイスラーム的アイデンティティの共存・緊張

[分析] Jakarta Post 掲載の2026年3月の分析記事によれば、「イスラム共和国はノウルーズに対して決して安心していなかった。1979年の革命は、アフガニスタンにおけるタリバンの後のプロジェクトと同様に、受け継がれた文化的伝統を普遍主義的イスラーム・イデオロギーに従属させようとした。ホメイニ師は前イスラーム的慣行を『火崇拝の遺物』として退け、革命初期にはノウルーズの慣例的な休日期間の廃止を含む抑制の試みがなされた」。しかしこれらの動きは抵抗を引き起こし、体制はより漸進的な戦略──公共の祝典を制限し、参加を阻止し、祭りを受容可能なイデオロギー的枠組みの中で再解釈する──へと転換を余儀なくされた。
(出典: Jakarta Post, “Between Persian culture and Islamic theocracy”, 2026年3月19日, https://www.thejakartapost.com/opinion/2026/03/19/between-persian-culture-and-islamic-theocracy-the-politics-of-irans-nowruz.html

[分析] Middle East Forum の分析によれば、「シーア派聖職者の支配的地位が、一部のナショナリスト知識人に、シーア派イスラームの文化的覇権は挑戦され、イランの前イスラーム的歴史・文化とペルシャ語及びその豊かな文学的遺産を強調する新しい形のアイデンティティによって置き換えられるべきだと信じさせた」。この前イスラーム的誇りの範囲は「ペルシャ語をトルコ語とアラビア語の汚染から『浄化』する」プログラム的計画の一部となった言語的ナショナリズムを通じて確立された。この運動はイスラームそのものへの反対というよりも、イスラム共和国の樹立への反応として生じたものである。
(出典: Middle East Forum, “Persian Cultural Nostalgia as Political Dissent”, https://www.meforum.org/middle-east-quarterly/persian-cultural-nostalgia-as-political-dissent

「2500年の文明国家」という自己認識と近現代の外交姿勢

[IRI公式] 2026年の米国・イスラエルによる攻撃後、イランの指導者たちは再び歴史的持続の言語に頼った。ペゼシュキアン大統領は「イランは少なくとも6000年の文明の後継者」であり「侵略者は来ては去った。イランは耐え抜いた」と宣言した。アラグチー外務大臣はイランを「7000年の文明に起源を持つ豊かな文化を持つ国家」と描写し、そのような国は外部の脅威に怯まないと警告した。
(出典: Foreign Policy, “The Islamic Republic’s Rhetoric About Iranian Civilization Is Hollow”, 2026年3月26日, https://foreignpolicy.com/2026/03/26/iran-civilization-persia-history-rhetoric/

[IRI公式] Tehran Times は「イランは文明として──歴史とアイデンティティ、そして政治的ビジョンの形成」と題する論考で、「イランは単なる国民国家ではなく、その政治的地平が広大な歴史的、文化的、哲学的遺産と不可分の文明的実体である」と述べ、「イランの戦略的決定を理解するためには、自らを周辺的アクターではなく中心的存在と見なす文明を理解しなければならない」と主張している。さらにTehran Times の別の論考では「我々は4つの異なるレベルで、4つの異なる方法で、4つの異なるルールに従って他者と対峙する。これは7000年の文明にとって自然なことである──商業的・準商業的利益のみを見る単純で限定的な理解が、千年に満たない文明にとって自然であるように」と述べている。
(出典: Tehran Times, “Iran as civilization”, 2025年11月22日, https://www.tehrantimes.com/news/520746/Iran-as-civilization-history-and-identity-and-the-making-of ; Tehran Times, “It is just a supradiplomatic op-ed”, 2026年5月25日, https://www.tehrantimes.com/news/526784/It-is-just-a-supradiplomatic-op-ed

[西側分析] Washington Times に掲載された分析(2026年6月)は「アメリカは革命的イスラーム政府とだけ交渉しているのではない。2000年以上のペルシャ的戦略文化によって形作られ、シーア派革命的枠組みによって統治される文明国家と交渉している」と指摘している。イラン文化にはターロフ(間接的コミュニケーション、礼節、多層的意味の洗練されたシステム)の概念が含まれ、公的声明は私的意図を完全には明かさず、立場は意図的にあいまいにされ、譲歩は明示的にではなく暗示的に示される。西側の交渉者はしばしばこうした行動を回避的と解釈するが、多くのイラン人はこれを文化的に適切な外交とみなしている。
(出典: Washington Times, “Iran is negotiating like Persia, not just the Islamic republic”, 2026年6月15日, https://www.washingtontimes.com/news/2026/jun/15/iran-negotiating-like-persia-not-islamic-republic/

[西側分析] Foreign Policy 誌は、イスラム共和国が文明的時間を呼び出すことについて批判的な分析を行い、「イスラム共和国の文明的時間の呼び出しは、戦略的深さではなくその欠如を覆い隠している」と指摘する一方、「危機の瞬間にイランの指導者は未来についてではなく永遠について語る」ことが、体制のレトリックと実際の政策の乖離を示していると分析している。
(出典: Foreign Policy, 同上)

Part B: 近現代政治史

B-1. カージャール朝と列強の侵食(1789〜1925)

トルコマーンチャーイ条約(1828)のイラン側での記憶

[イラン国内記憶/コンセンサス] トルコマーンチャーイ条約(1828年2月22日)は、露波戦争(1826〜28年)の結果としてカージャール朝イランとロシア帝国の間で締結された。イランはエリヴァン・ハン国、ナヒチェヴァン・ハン国、タリシュ・ハン国の残部をロシアに割譲し、アラス川が国境と定められた。Wikipedia によれば「イランは今日に至るまで公式に、この条約と先行するゴレスターン条約(1813年)を、これまでに署名された最も屈辱的な条約の一部とみなしている」。ファトフ・アリー・シャーは「この条約の屈辱的な譲歩のためにイランで最も無能な支配者の一人として記憶されている」。
(出典: Wikipedia, “Treaty of Gulistan”, https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Gulistan; Wikipedia, “Treaty of Turkmenchay”, https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Turkmenchay

[分析] Antiwar.com 掲載の2026年6月の分析記事は、イランの5000年の歴史の中で19〜20世紀を「切断の世紀」と呼んでいる。「今日のイランにおいて、トルコマーンチャーイ条約(1828年)は文化的な傷であり、国家的屈辱の同義語であり続けている」。この条約により、コーカサスにおけるイランの全領土(現在のジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、北コーカサスのダゲスタン)がロシアの支配下に入り、その状態は約180年間続いた。
(出典: Antiwar.com, “The Defiant Republic: The Ideological Imperative of a Strong Iran”, 2026年6月30日, https://original.antiwar.com/reza_behnam/2026/06/30/the-defiant-republic-the-ideological-imperative-of-a-strong-iran/

[学術] History Sphere の分析は、この条約が「外国の圧政と喪失を象徴する国家的屈辱として、イランの国民意識と帝国主義的干渉をめぐる歴史的記憶を形成した」とまとめている。イランは戦争賠償金の支払いを義務づけられ、ロシアにイラン国内のどこにでも領事を送る権利が認められた(第10条)。これがイランの半植民地的地位への転落を加速させた。
(出典: History Sphere, “Treaty of Turkmenchay Signed (1828)”, https://historysphere.com/treaty-of-turkmenchay-signed-turkmenchay-near-tabriz-persia-1828-02-21/

ロイター利権(1872)とダーシー利権(1901)に対するイラン国内の反応

[学術/コンセンサス] 19世紀後半、カージャール朝のナーセロッディーン・シャーは外国企業への利権売却を拡大した。1870〜80年代にはイランの電信・郵便、漁業、鉱山の多くが西側──主にイギリス──の利権に売却された。ロイター利権(1872年)はイランの鉱業・工業・交通のほぼ全面的な独占を英国人ポール・ジュリアス・ロイターに付与するもので、ロシアの反対と国内の激しい批判により撤回を余儀なくされた。ダーシー利権(1901年)はイランの石油探査・採掘権をウィリアム・ノックス・ダーシーに付与し、これが後のアングロ・ペルシャン石油会社(APOC、後のBP)の設立につながった。これらの利権はイラン国内で「国家資源の売却」「主権の喪失」として深い怨嗟を生んだ。
(出典: Encyclopedia.com, “Iranian Tobacco Protest Movement”; Wikipedia, “Nationalization of the Iranian oil industry”)

[在外イラン人研究者] Encyclopaedia Iranica の立憲革命に関する項目は、これらの利権が「英国帝国ペルシャ銀行やロシア融資銀行に与えられた金融独占」とともに、イラン国内の商人・地主・都市名士、さらには王族の一部さえも外国銀行への重債務に苦しめたことを指摘している。「破産寸前の彼らは、経済的独立を財政的困難からの脱出口として見た」。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “CONSTITUTIONAL REVOLUTION i. Intellectual background”, https://www.iranicaonline.org/articles/constitutional-revolution-i/

タバコ・ボイコット(1891-92)

[学術/コンセンサス] 1890年3月、ナーセロッディーン・シャーは英国人タルボット少佐にイランのタバコ生産・販売・輸出の50年間の完全独占利権を付与した。Encyclopedia.com によれば、これは「イランにおける最初の全国的大衆運動であり、タバコ利権と、それを付与したシャー、および他の利権、特にイギリスとロシアへの利権に対して向けられたものであった」。

[歴史的事実] 1891年春、英国タバコ会社の代理人がイランに到着し始めると、各地で大規模な抗議が勃発した。シーラーズで始まった抗議はタブリーズに広がり、タブリーズでは抗議があまりに広範で脅威的であったためシャーはそこでの利権を停止した。1891年12月、シーア派最高権威のミルザー・ハサン・シーラーズィーが「利権が廃止されるまですべての喫煙を禁じる」ファトワーを発布した。このファトワーは「隠れイマームへの戦争に等しい」という最も強い宗教的言語を使用したものだった。

[歴史的事実] ボイコットは全国規模で遵守され、シャーの後宮の女性たちや非ムスリムさえも参加した。バザールは閉鎖され、全国で誰もが喫煙・タバコの売買をしないことが目撃されたと、この事件を報告した者たちは一致して述べている。1892年1月、シャーは利権を完全に撤回し、殺害された者の遺族への補償に同意し、抗議指導者全員を赦免した。
(出典: Encyclopedia.com, “Tobacco Protest, Iran”; Global Nonviolent Action Database; イラン禁煙協会, https://iata.org.ir/en/blog-en/the-persian-tobacco-protest/

[イラン側の歴史叙述における位置づけ] タバコ・ボイコットはイランの歴史叙述において「反帝国主義の最初の大規模な大衆運動」として位置づけられている。聖職者・商人・一般市民が結集して外国利権を撤回に追い込んだこの運動は、「外部が主権を侵害しようとするとき、イラン人は団結して抵抗する」というパターンの原型として記憶されている。この運動は立憲革命(1906年)への直接的な先行事象として語られる。
(出典: History Atlas, “Tobacco Protest History”; Encyclopedia.com, “Tobacco Revolt”)

立憲革命(1906)のイラン側の歴史叙述

[在外イラン人研究者] Open Democracy への寄稿で、匿名の研究者は「1906年12月30日深夜、瀕死のイラン皇帝ムザッファロッディーン・シャー・カージャールがイラン初の憲法に署名し、自由主義的・議会制政府の勇敢な実験を開始した。過去1世紀にわたって英露帝国間の『グレート・ゲーム』の駒であったイランは、ヨーロッパ帝国主義の満潮に溺れるアジアにとっての希望の灯火として輝いた」と記している。「イランにおける民主主義──より正確には、責任ある、進歩的で独立したリーダーシップ──をめぐる闘争は100年以上の歴史を持ち、2009年の緑の運動から始まったのでも、1979年のイスラム革命や1950年代のモサデグのナショナリスト運動から始まったのでもない」。
(出典: Open Democracy, “A forgotten anniversary: Iran’s first revolution and constitution”, https://www.opendemocracy.net/en/forgotten-anniversary-irans-first-revolution-and-constitution/

[学術] Ali Ansari 教授(グレシャム・カレッジ、2023年講演)によれば、「イラン人は19世紀に入るにあたり、政治的混乱の数十年を経てヨーロッパ帝国主義という新しい挑戦に直面した。これは軍事的脅威というよりもイデオロギー的な挑戦であり、ヨーロッパ人が政治的・経済的組織化について新しい理念を持ち込んだ」。立憲革命は「ロシアによって課された抑圧のために頓挫したが、ペルシャの政治的風景に深い影響を与える原則を確立した」。

[歴史的事実] 1907年9月、イギリスとロシアはイランを二つの勢力圏に分割する協定を結んだ(英露協商)。1908年6月、モハンマド・アリー・シャーはロシア人将校リアホフ大佐が指揮するイラン・コサック旅団に国民議会(マジュレス)を砲撃させた。複数の議員と立憲主義者が拘留・殺害された。1911年にはロシア軍が直接介入し、立憲主義者の抵抗を鎮圧した。Iran Chamber によれば「外国の陰謀とモハンマド・アリー・シャーの立憲主義者に対する敵対を利用して」第一マジュレスは解散させられた。
(出典: Iran Chamber, “History of Iran: Constitutional Revolution”, https://www.iranchamber.com/history/constitutional_revolution/constitutional_revolution.php

[イラン側の記憶としてのパターン] 立憲革命は、イランの歴史叙述において「民主的議会を勝ち取ったのに英露に潰された」という記憶として定着している。これは「主権行使を外部が潰す」パターンの原点として、1953年のクーデター、2018年のJCPOA離脱と並んで語られることが多い。Schools-History.Comの分析によれば「革命は最終的に安定した立憲統治を確保することに失敗したが、立憲主義、国家主権、法の支配の概念をイランの政治的言説に導入し、20世紀における民主主義と権威をめぐるその後の闘争の基盤を築いた」。
(出典: Schools-History.Com, “The Qajar Dynasty & the Persian Constitutional Revolution”, https://kenbaker.wordpress.com/2026/03/16/the-qajar-dynasty-the-persian-constitutional-revolution-1906-1911/

B-2. パフラヴィー朝(1925〜1979)

レザー・シャーの近代化に対するイラン側の評価

[IRI公式] イスラム共和国の公式叙述において、レザー・シャーは英国の支援を受けてクーデターで権力を掌握し、世俗的近代化の名の下にイスラーム的価値と聖職者の権威を体系的に抑圧した人物として描かれる。特にチャードル(イスラーム的ヴェール)の公式禁止(1936年)は、「女性を裸にする」こと、イランを倫理的・道徳的根幹から切り離すことを目的としていたと批判される。IRI成立後、新体制はパフラヴィー朝の世俗化政策の多くを逆転させることを急務とした。
(出典: Sociostudies.org, “Globalization and Post-Islamic Revolution”)

[学術/世俗的知識人の評価] 学術的には、レザー・シャーの評価は分裂している。ResearchGateに掲載された論文(2026年3月)は「彼の方法はしばしば物議を醸したが、国家建設の取り組みは近代イラン国家の構造的基盤を築いた」と評価している。テヘラン大学の設立(1934年)、近代的法典の導入、鉄道建設、軍の近代化は「イランを農業社会から近代国家へ変容させようとする」ものだった。一方で「権威主義的統治と宗教機関・部族権威の影響力削減の試み」から生じた批判は永続的であった。
(出典: ResearchGate, “Reza Shah Pahlavi and the Foundations of Modern Iran”, https://www.academia.edu/165180278/Reza_Shah_Pahlavi_and_the_Foundations_of_Modern_Iran_Achievements_and_Criticisms

[在外イラン人研究者] Homa Katouzian は著書でレザー・シャーの近代化を「統一的ナショナル・アイデンティティの推進」と位置づけつつ、その権威主義的手法と少数民族・部族への弾圧を批判的に分析している。Gresham College 講演でのAnsari教授の表現では、立憲革命と第一次大戦の経験から「イラン知識人はペルシャに近代化のプロセスを開始するための『啓蒙的専制君主』が必要だと結論づけ」、それがレザー・ハーン(後のレザー・シャー)──「ペルシャのピョートル大帝」──として具現化した。
(出典: Gresham College, “Iran’s Constitutional Revolution of 1906”, https://www.gresham.ac.uk/watch-now/iran-1906; Katouzian, 著書への間接参照)

[在外イラン人ディアスポラ] ディアスポラにおいては、パフラヴィズム(Pahlavism)が「世俗的近代化、イラン・ナショナリズム、女性解放、文化的復興主義の国家中心的ビジョン」として、神政的統治に対する代替的政治アイデンティティとして再評価されている。抗議スローガン、ディアスポラの言説、イランの前イスラーム的遺産への新たな関心がその持続を示している。
(出典: ResearchGate, 同上)

第二次大戦中の英ソによるイラン占領(1941)

[イラン側の記憶] 1941年8月25日、英国とソ連はイランを共同侵攻した(英ソによるイラン侵攻)。レザー・シャーは退位を強制され、息子のモハンマド・レザーが即位した。この占領はイランの歴史叙述において、中立を宣言していた主権国家に対する明白な侵略行為として記憶されている。Open Democracy の記事は「過去1世紀にわたって英露帝国間の『グレート・ゲーム』の駒であったイラン」と表現し、Ansari 教授は「イランは大戦の坩堝に事実上の混乱の中で入った」と記述している。

[学術] Association for Iranian Studies の Cyrus Cylinder 関連研究は、第二次大戦中のイラン侵攻が「危機の瞬間」であり、この時期にキュロスの円筒碑文が「権利文明の開始テーマとしての基礎テキスト」として浮上したと分析している。レザー・シャーの強制退位は、イラン人にとって「外部勢力がイランの統治者を意のままに据え替える」パターンの一例として記憶されている。
(出典: Association for Iranian Studies, “The Cyrus Cylinder and the Rights Question”, https://associationforiranianstudies.org/content/cyrus-cylinder-and-rights-question

モサデグと石油国有化(1951-53)

イラン側にとってのモサデグの位置づけ

[イラン国内/ナショナリスト] モハンマド・モサデグ(1882〜1967年)はイランの歴史叙述において、民族的英雄であり未完の民主主義の象徴として位置づけられている。モサデグ自身の法廷での発言──「はい、私の罪──私のより大きな罪──そして最大の罪は、イランの石油産業を国有化し、世界最大の帝国による政治的・経済的搾取の体制を打ち捨てたことです」──は広く引用される。モサデグ伝記サイトによれば「モサデグはイランが独立し、自由で民主的であることを構想した。政治的に独立し自由であるためには、まず経済的独立を達成しなければならないと信じた」。石油国有化の「道徳的側面は経済的側面よりも重要である」というモサデグ自身の言葉が引用される。
(出典: mohammadmossadegh.com, “Dr. Mohammad Mossadegh Biography”, https://www.mohammadmossadegh.com/biography/

[在外イラン人研究者] Ervand Abrahamian(CUNY)によれば、モサデグの石油産業国有化は「西側の世界的石油供給支配に対する重大なリスク」を突きつけた。特にサウジアラビア、クウェート、イラク、ベネズエラなどで西側石油会社が保有する石油利権に対する国有化の脅威を減じるために、クーデターが必要とされた。クーデター後のシャー政権は石油会社との協定に署名し、事実上国有化を覆し、アメリカ企業にコンソーシアムの40%を与えた。
(出典: Texas National Security Review, “The Collapse Narrative”, https://tnsr.org/2019/11/the-collapse-narrative-the-united-states-mohammed-mossadegh-and-the-coup-decision-of-1953/

1953年クーデター(28 Mordad)のイラン側の歴史叙述

[Encyclopaedia Iranica] Mark J. Gasiorowski の Encyclopaedia Iranica への寄稿によれば、クーデターは「MI6によって構想され、CIAによって実行された」(D. Wright の表現)。モサデグの首相就任(1951年4月29日)と石油産業国有化が「ペルシャ政府とイギリス政府の間の緊迫した対立の時期」を開始し、「28 Mordad 1332年(1953年8月19日)のクーデターによるモサデグの打倒まで続いた」。CIAはザーヘディー将軍のためにモサデグ罷免とザーヘディー任命の2つのファルマーン(勅令)を起草し、シャーが署名した。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “COUP D’ETAT OF 1332 Š./1953”, https://www.iranicaonline.org/articles/coup-detat-1953/

[米国公式(機密解除文書)] National Security Archive に公開された文書によれば、「『28 Mordad』のクーデター──そのペルシャ暦の日付で知られる──は、イランにとって、中東にとって、そしてこの地域における米国の地位にとっての分水嶺であった。米英共同作戦は、自国の資源に対する主権的支配を主張しようとするイランの努力を終わらせ、この国のナショナリストおよび民主主義運動の活力ある一章に終止符を打つのに貢献した。これらの帰結は後年劇的な効果をもって響いた」。
(出典: Wikipedia, “1953 Iranian coup d’état”, National Security Archive への引用, https://en.wikipedia.org/wiki/1953_Iranian_coup_d’état

[米国公式(CIA内部史・機密解除)] 2013年、CIAは情報公開法に基づき、1970年代中期に執筆された内部報告書 “The Battle for Iran” の機密解除版を公開し、同文書にはCIAの関与への最も明確な公式認定が含まれていた。同文書はクーデターが「CIA の指揮の下、米国の外交政策の行為として遂行された」と記述している。2017年6月には国務省が Foreign Relations of the United States (FRUS) シリーズの1951〜54年イラン巻(1,007ページ)を公開し、トルーマン・アイゼンハワー両政権がイラン政策の補助手段として秘密工作(TPAJAX作戦)を用いた経緯を文書化した。CIA内部史 “Zendebad, Shah!” の追加機密解除(2017年末)では、作戦の官僚的・政治的側面への批判的分析が含まれている。
(出典: CNN, “In declassified document, CIA acknowledges role in 1953 Iran coup”, 2013年8月20日; National Security Archive, “Iran 1953: State Department Finally Releases Updated Official History”, 2017年6月15日, https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/iran/2017-06-15/iran-1953-state-department-finally-releases-updated-official-history; CIA Reading Room, “Zendebad, Shah!”, https://www.cia.gov/readingroom/docs/the central intelligence [15369853].pdf

[米国公式(大統領声明)] 2009年6月4日、バラク・オバマ大統領はカイロでのイスラーム世界に向けた演説において、現職大統領として初めて米国の関与を公式に認め、「冷戦の最中に、米国は民主的に選ばれたイラン政府の転覆に一定の役割を果たした」と述べた。これに先立つ2000年3月、マデレーン・オルブライト国務長官も「1953年に米国はイランの人気ある首相モハンマド・モサデグの転覆に重要な役割を果たした」と認めたが、正式な謝罪は行わなかった。
(出典: Obama, Cairo Speech, 2009年6月4日; Albright, Speech on American-Iranian Relations, 2000年3月17日)

[IRI公式/ナラティブ] イスラム共和国にとって、1953年のクーデターは「アメリカは繰り返しイランの主権を侵害する」というナラティブの中心的事件である。革命防衛隊は形成当初から「モサデグの時代のようなCIAの支援によるクーデターを阻止する」ための非公式宗教民兵として位置づけられた。大使館占拠時に発見されたCIA文書は『大悪魔の本質(The True Nature of The Great Satan)』として出版され、SAVAKのイラン国内での協力ネットワークとアメリカ諜報機関との連携を暴露した。
(出典: Britannica, “Iranian Revolution - Aftermath”; Columbia ASIT, “The Shah’s ‘Fatherly Eye’”)

[イラン国内の多元的記憶] ただし、モサデグの評価はイラン国内でも完全に一枚岩ではない。Persian Bridge of Friendship が紹介するイラン国内の議論では、モサデグが「人民の英雄」か「自らの法的逸脱の犠牲者」かという論争が70年後も続いている。歴史家ダリウーシュ・ラフマーニアンはモサデグの国民投票による議会解散を「単純な思考」の表れと評し、「敵を打ち負かすためにゲームのルールを破ることで、彼を権力の座に留めていた法的盾そのものを不注意にも破壊した」と指摘している。
(出典: Persian Bridge of Friendship, “Nationalization of oil: honor or captivity?”, https://persianbridge.eu/2025/12/22/nationalization-of-oil-honor-or-captivity-contextual-article/

クーデター後のイラン社会への影響

[学術/コンセンサス] NCRI(イラン抵抗国民評議会)の分析は──同組織の政治的立場を留保しつつ──クーデターの影響を次のようにまとめている:「モサデグの政府は解体され、権力を回復したシャーは絶対的権威主義の道を歩んだ。最も悪名高いSAVAK諜報機関を含む弾圧の制度が反対意見を圧殺するために設立された。体制の存続は二つの柱に依存した:国内での残酷な弾圧と海外の利益への完全な連携」。
(出典: NCRI, “The 1953 Coup in Iran”, https://www.ncr-iran.org/en/news/the-1953-coup-in-iran-a-turning-point-in-dictatorship-and-foreign-domination/

モハンマド・レザー・シャーの統治(1953-79)

SAVAK(秘密警察)に対するイラン側の記憶と記録

[在外イラン人研究者] Ervand Abrahamian は著書 Tortured Confessions: Prisons and Public Recantations in Modern Iran(1999年)において、SAVAKの拷問を単なるサディスティックな逸脱ではなく「国家政策の計算された道具」として分析した。尋問は二つの目的のために設計されていた:情報と自白の引き出し、および個人を打ち砕き国家の絶対的権力を示すことによる抑止。Abrahamian は被害者の証言と革命後の裁判記録に基づき、ファラカ(足裏への鞭打ち)、電気ショック、長期独房監禁、性的暴力、模擬処刑を含む「科学的」拷問のシステムを記録した。Abrahamian の推定では、SAVAKは1971〜77年に368名のゲリラを殺害し、1971〜79年に最大100名の政治犯を処刑した。
(出典: Explaining History, “SAVAK and the Mechanisms of Authoritarian Consolidation”, https://explaininghistory.org/2025/09/03/savak-and-the-mechanisms-of-authoritarian-consolidation-in-pahlavi-iran-1957-1979/; Wikipedia, “SAVAK”)

[西側学術] Nikki Keddie(2003年)はSAVAKを「パフラヴィー国家の深い政治的弱さの症状」として位置づけた。大衆的正統性を欠いた体制が同意を強制で代替し、SAVAKは「政治的手段を通じて統治できない国家の松葉杖」であったとする。Mark Gasiorowski はSAVAKを主に冷戦の構築物として枠組みづけ、その形態・機能・技術的能力はアメリカの外交政策目標の直接的な延長であったとする。
(出典: 同上)

[IRI公式] イスラム共和国にとってSAVAKは「王政の専制」の象徴である。ただし、批判的分析者は、イスラム共和国がSAVAKを非難しつつ「その中核的な運用枠組みを継承した」と指摘している。
(出典: 同上)

[米国公式(CIA・国務省記録)] SAVAKは1957年、1953年クーデター後の安全保障体制構築の一環として、CIAとイスラエルのモサドの直接的支援のもとに設立された。GlobalSecurityの分析によれば、CIAの訓練プログラムは20年以上にわたり持続し、ピーク時には年間400名以上のSAVAK要員がバージニア州ラングレー近郊のCIA施設で訓練を受けた。カリキュラムは監視技術、情報源の勧誘・管理、対諜報活動、尋問技法を含む諜報技術の全範囲を網羅していた。国務省の外交史シリーズ(FRUS, 1969-76)には、SAVAKとCIAの間のイラク・クルド人問題に関する協議記録が含まれており、両組織の密接な作戦的連携が文書化されている。一方、1978年9月のCIA報告書は「イランは革命的状況にも前革命的状況にもない。シャーは少なくともあと10年間は実効的に権力を保持するだろう」と評価しており、SAVAKとの長年の関係にもかかわらず、革命の予測に失敗したことが記録されている。
(出典: GlobalSecurity, “SAVAK - CIA Training Program”; FRUS, 1969-76, Vol. E-4, Doc. 301, https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1969-76ve04/d301

白色革命(1963)のイラン側での評価

[歴史的事実/多元的評価] 1963年にモハンマド・レザー・シャーが開始した「白色革命」は、農地改革、識字教育、女性参政権を含む一連の近代化改革であった。IRI公式の立場からは、白色革命は農村共同体を混乱に陥れ、シーア派聖職者を疎外し、アメリカの利益のために設計された偽の改革であったとされる。ホメイニ師は白色革命に公然と反対し、1963年6月に逮捕された(これが全国的な蜂起と弾圧を引き起こした)。世俗的知識人の一部はインフラ整備や女性の権利拡大を評価する一方、急速な変化が農民やバザール商人を含む社会各層を疎外したと批判する。
(出典: Britannica, “White Revolution”; EBSCO, “Pahlavi Shahs Attempt to Modernize Iran”)

「近代化」の名の下の文化的抑圧

[分析] 「近代化」の名の下でシャーが推進した政策──西洋式の服装の強制、世俗教育の推進、宗教機関の権限削減──は、イラン社会の深い亀裂を生んだ。Explaining History の分析によれば、SAVAKは「穏健な反対派を排除し、それによって批判者を急進化させ」「多様な集団の間に殉教と抵抗の共有されたナラティブを生み出し」「シャーの統治の嫌われる顔となり、イラン社会のほぼすべてのセグメントを疎外した」。1975年までに22名の著名な詩人、小説家、教授、演劇監督、映画監督が体制批判のために投獄されていた。
(出典: Wikipedia, “SAVAK”; Explaining History, 同上)

B-3. イスラム革命(1979)

革命のイラン側の歴史叙述──「イスラム革命」か「イラン革命」か「民衆革命」か

[IRI公式] イスラム共和国はこの事件を一貫して「イスラム革命(انقلاب اسلامی)」と呼称する。これは革命がイスラーム的価値の回復と法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)の確立を目的としたものであるという公式叙述に基づく。1979年3月のイスラム共和国国民投票では98%が賛成し、同年12月に新憲法が圧倒的多数で承認された。
(出典: Wikipedia, “Iranian Revolution”)

[在外イラン人研究者/学術] 在外の研究者たちは、より多くの場合「イラン革命(Iranian Revolution)」と呼称し、革命の社会的基盤の多元性を強調する。Explaining History の分析によれば、革命の参加者はイスラーム主義者だけではなく、マルクス主義者(トゥーデ党、フェダーイーン)、自由主義者、ナショナリスト、バザール商人、知識人を含む広範な連合であった。「1979年の間を通じて、ホメイニとその同盟者は抵抗の様々な要素を傍流に追いやるべく動いた。一部は亡命に追いやられ、他の一部は支配者との一時的な同盟を結んだが後にイラン政治から一つずつ排除された」。
(出典: Explaining History, “The Iranian Revolution: Origins, Course, and Legacy”, https://explaininghistory.org/2025/08/27/the-iranian-revolution-origins-course-and-legacy/

[西側学術] Said Amir Arjomand はイランの激動を歴史上の「偉大な革命」と比較し、その興隆の計画されていない性質を指摘した。シーア派の伝統と共同体の連帯が反応的な力として機能し、ヴェラーヤテ・ファギーフの教義が革命の制度化の中核となった。
(出典: 同上)

ホメイニ師の革命論(ヴェラーヤテ・ファギーフ=法学者の統治)の論理構造

[IRI公式/思想] ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)は、ホメイニ師が体系化したシーア派政治神学の教義である。隠れイマームの不在期間において、イスラーム法学者(ファギーフ)が政治的・宗教的最高権威として統治する権限を持つという理論である。1979年12月に承認された憲法はこの教義を制度化し、最高指導者(ヴァリー・イェ・ファギーフ)に行政・立法・司法のすべてに対する最終的な権限を付与した。護憲評議会(ガーディアン・カウンシル)が立法のイスラーム法との適合性を審査する体制が構築された。
(出典: Iran Chamber, “History of Iran: Islamic Revolution”; Brookings, “The Iranian Revolution: A Timeline of Events”)

[在外イラン人研究者] Encyclopaedia Iranica の人質危機に関する項目は、革命後のイラン政治における3つのパラダイムを区別している:(1) バザールガーン首相に代表されるリベラル・ナショナリスト(西側との漸進的関係正常化を志向)、(2) アリー・シャリーアティーの思想的影響を受けた左派イスラーム主義者(経済的自給自足、主要産業国有化、西側との関係断絶を主張。ホメイニ師をカリスマ的権威として支持したが、ヴェラーヤテ・ファギーフの制度的権威には必ずしも同意していなかった)、(3) ホメイニ師自身が擁護した清教徒的イスラーム神政(ウラマーを統治者とする体制)。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “HOSTAGE CRISIS”, https://www.iranicaonline.org/articles/hostage-crisis/

アメリカ大使館占拠事件(444日間)のイラン側の説明と正当化の論理

[IRI公式/革命ナラティブ] 1979年11月4日、ホメイニ師の路線を支持する学生集団がテヘランの米国大使館を占拠し、52名のアメリカ人を人質として444日間拘束した。Wikipedia によれば、学生たちの動機は複数の層を持っていた:(1) シャーの米国への入国(がん治療のため)が1953年のクーデターのような米国支援のクーデターの前兆であるという恐怖、(2) 米国による革命の「サボタージュ」を終わらせること、(3) 米国との関係正常化を画策していると見なしたバザールガーン暫定政府を打倒すること、(4) シャーの身柄引き渡しを要求すること。
(出典: Wikipedia, “Iran hostage crisis”, https://en.wikipedia.org/wiki/Iran_hostage_crisis

[IRI公式] ホメイニ師は大使館を「スパイの巣窟(لانه جاسوسی)」と呼び、占拠を承認した。Britannica によれば「大使館占拠を通じて、ホメイニの支持者は政治的左翼と同じくらい『反帝国主義的』であると主張することができた。これが最終的に体制の左翼および穏健な反対派のほとんどを弾圧する能力を与えた」。バザールガーン首相は占拠に抗議して辞任し、革命評議会に無競争の権威が移った。
(出典: Britannica, “Iranian Revolution - Aftermath”, https://www.britannica.com/event/Iranian-Revolution/Aftermath

[Encyclopaedia Iranica] Encyclopaedia Iranica によれば、占拠を計画した学生の誰も、それが持続的な危機になるとは予期していなかった。ホメイニ師が計画を事前に知っていたかは確認困難であるが、占拠の指導者ホエイニーハーは「アヤトラは意図的に情報を知らされていなかった」と述べている。しかしグランド・アヤトラのシャリーアトマダーリーは占拠を容認することを拒否した。
(出典: Encyclopaedia Iranica, “HOSTAGE CRISIS”)

[対照:西側/米国の受け止め] Brookings の分析によれば、人質危機はアメリカ国内で「国家的怒りの波」を引き起こし、カーター大統領を守勢に追い込んだ。HISTORY によれば「当初は短期的な抗議として計画されたものが、ホメイニの最終的な承認を得て」持続的な危機となり、「米イラン関係を数十年にわたって断絶させ、苦しめるものとなった」。
(出典: Brookings, “The Iranian Revolution: A Timeline of Events”; HISTORY, “What Led to the 1979 Iranian Revolution?”)

[米国公式(大統領令・国務省記録)] カーター大統領は1979年11月14日、国際緊急経済権限法(IEEPA)に基づく大統領令12170号に署名し、米国管轄下のすべてのイラン政府資産(約120億ドル)を凍結した。これはIEEPAの初の適用事例であり、以後数十年にわたる米国の対イラン制裁政策の雛形となった。1980年4月7日、カーター大統領はイランとの国交断絶を発表し、輸出禁止、金融取引禁止、イラン国営企業の米国内営業許可取消を含む追加制裁を発動した。同月、イーグルクロー作戦(人質救出作戦)が砂漠で失敗し8名の米軍兵士が死亡した。国務省外交史シリーズ(FRUS, 1977-80, Vol. XI, Part 1)は、直接の外交チャンネルが欠如する中でカーター政権が公式・非公式の仲介者を通じて交渉を試み、外交的・経済的戦略と軍事的圧力を組み合わせた経緯を文書化している。人質は1981年1月20日、レーガン大統領就任と同時に解放された(アルジェ合意)。
(出典: FRUS, 1977-80, Vol. XI, Part 1, “Iran: Hostage Crisis”, https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1977-80v11p1; 国務省外交史局, “The Iranian Hostage Crisis”, https://history.state.gov/departmenthistory/short-history/iraniancrises

革命の社会的基盤──誰が、なぜ革命を支持したか

[学術/コンセンサス] 革命は単に宗教指導者の運動ではなかった。その社会的基盤は以下の複数の集団を含んでいた:

[在外イラン人研究者] バザール商人は伝統的にシーア派聖職者と密接な関係にあり、シャーの近代化政策(大規模小売店の推進、物価統制)に経済的利益を脅かされていた。知識人・学生はSAVAKによる言論の抑圧、大学への監視に反発した。労働者は石油産業を中心にストライキで革命を支えた。農村からの都市移住者はシャーの白色革命による急速な農地改革で土地を失い、都市の周縁部に流入していた。マルクス主義組織(トゥーデ党、フェダーイーン・ハルク、ムジャーヒディーン・ハルク)も革命に参加したが、革命後に弾圧された。
(出典: Explaining History, 同上; Wikipedia, “Iranian Revolution”)

[分析] HISTORY の分析によれば「様々な反対派要素が傍流に追いやられた後も、市民社会の側面は持続し、政府と聖職者の支配・弾圧に対して時に反発した」。革命の多元的基盤と革命後のイスラーム主義者による権力集中の間の緊張は、その後のイラン政治の基底的な構造として今日に至るまで持続している。
(出典: HISTORY, “What Led to the 1979 Iranian Revolution?”, https://www.history.com/articles/1979-iranian-revolution-causes

B-4. イラン・イラク戦争(1980〜1988)

「聖なる防衛(دفاع مقدس)」としての戦争の位置づけ

[IRI公式] イラン・イスラム共和国において、イラン・イラク戦争は一貫して「聖なる防衛(دفاع مقدس, Defa-e Moqaddas)」または「押しつけられた戦争(جنگ تحمیلی)」と呼ばれる。毎年9月22日の「聖なる防衛週間」は全国的に記念され、殉教者と退役軍人を顕彰する。Tehran Times は「9月22日はイランに対する血まみれの8年間の戦争の開始記念日を示す。イラクが開始し、米国と西側諸国が支援したこの戦争は、イランにおいて聖なる防衛(defa-e moqaddas)として知られる」と記している。英国の学者 Michael Axworthy によれば、戦争は100万人以上のイラン人の命を奪い、「殉教とシーア派イスラームにおける第一線の体験を持つ世代全体」を残した。
(出典: Tehran Times, “The Sacred Defense: 8 years of U.S.-backed war on Iran”, 2016年9月27日, https://www.tehrantimes.com/news/406704/The-Sacred-Defense-8-years-of-U-S-backed-war-on-Iran

[IRI公式] PressTV は「これは単にイランとイラクの間の戦争ではなかった。諸国の国際的な連合がイラク独裁者サダム・フセイン政権にイスラム共和国を打倒するための広範な軍事的・財政的支援を提供した。究極的にその努力は失敗した。結果はイラン国民の強靭さと勇気によって形作られ、イスラム革命の創始者ホメイニ師の指導によって導かれた」と記している。
(出典: PressTV, “Eight years of imposed war, and role of sacred defense”, 2026年2月8日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/02/07/763641/The-8-Year-imposed-war,-and-the-role-of-Sacred-Defense

[IRI公式] IRNA は、イラン軍参謀総長モハンマド・バーゲリー少将の「聖なる防衛はイラン国民にとっての歴史を作る始まりである」「何世紀にもわたって、誰もイランの一部さえも容易に切り取ろうとすることはできないだろう」という発言を報じている。
(出典: IRNA via GlobalSecurity, “‘Sacred Defense consolidated Iran’s territorial integrity’”)

[学術/分析] Modern War Institute(ウエストポイント)の分析は、戦争が「IRGCを軍と並ぶ恒久的な柱として定着させ、忍耐と自立を称揚する『聖なる防衛』ナラティブを正典化した」と指摘している。
(出典: Modern War Institute, “Not Just Desert Storm and the Yom Kippur War”, https://mwi.westpoint.edu/not-just-desert-storm-and-the-yom-kippur-war-why-the-iran-iraq-war-should-inform-us-military-thinking-about-large-scale-combat-operations/

国連安保理がイラクの侵攻を即座に非難しなかったことへのイラン側の認識

[IRI公式] 最高指導者府ウェブサイト(khamenei.ir)に掲載されたハメネイ師の発言集は、この問題を繰り返し取り上げている。ハメネイ師は「国連の規定によれば、安保理は最初の数時間以内に侵略者としてイラクを非難する決議を出すべきだった。しかし彼らはそうしなかった。彼らは数日間いかなる反応も示さなかった。イラク軍が混乱した状況を利用してわが愛する国の土に入り、数千キロメートルを占領した時になって初めて、安保理は声明を出すために頭を上げた」と述べている。さらに「この組織が敏感な時期には超大国の手中にあり、諸国民のためではなく超大国のために機能することを我々は認識した」と述べている。
(出典: Khamenei.ir, “Important facts about Iran’s Sacred Defense”, https://english.khamenei.ir/news/9176/Important-facts-about-Iran-s-Sacred-Defense

[学術/事実] 安保理は戦争開始から数日後にようやく決議479(1980年9月28日)を採択したが、この決議はイラクを侵略者として名指しせず、単に「敵対行為の停止」を求めるにとどまった。イラン側はこの決議を「侵略者を免罪する偽りの中立」として繰り返し批判している。

[米国公式(NSDD-114・CIA記録)] 1983年11月26日、レーガン大統領は国家安全保障決定指令114号(NSDD-114、「イラン・イラク戦争に対する米国の政策」)に署名した。同指令はホルムズ海峡の自由航行確保と、湾岸地域の同盟国への軍事的脅威への即応態勢維持を命じた。CIA機密解除文書に含まれる1983年12月の国家安全保障会議(NSC)メモランダムは、NSDD-114の実施状況を報告し、「交渉による解決を実現し、それが失敗した場合は戦争のエスカレーションを防止する」ことを即時の優先事項としつつ、イラクのドナルド・ラムズフェルド特使との協議を含む外交的イニシアチブと軍事計画の両面を追求していたことを記録している。米国の公式的立場は「中立」であったが、実質的にはイラクの敗北を防ぐ方向に傾斜(“tilt toward Iraq”)していた。
(出典: CIA Reading Room, NSDD-114, CIA-RDP85M00363R000400740034-4, https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp85m00363r000400740034-4; CIA Reading Room, “US Policy Towards the Iran-Iraq War: Status Report on NSDD-114”, CIA-RDP85M00363R000400740033-5, https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp85m00363r000400740033-5

化学兵器使用と西側の沈黙

[IRI公式] Tehran Times は2024年、イラン外務省報道官ナーセル・カナーニーの「国連の報告書によれば、サダム政権はイスラム共和国との戦争中に350回以上化学兵器を使用した」という発言を報じた。カナーニーは「一部の西側諸国の偽善的で不公正な態度」を非難し、ハラブジャの悲劇を「西側の人権に関する二重基準政策の苦い実例」と位置づけた。
(出典: PressTV, “Iran: Halabja tragedy exposed West’s double standard on human rights”, 2024年3月15日, https://www.presstv.ir/Detail/2024/03/15/721934/Iran-Iraq-Halabja-chemical-attack-Nasser-Kan-ani-imposed-war-West-human-rights-Sardasht

[IRI公式] 2026年6月28日(サルダシュト化学兵器攻撃39周年)、Tehran Times はイラン外務大臣アラグチーが「サルダシュトは化学爆弾の犠牲者であるだけでなく、二重基準の犠牲者でもあった──特にドイツ、アメリカ、イギリス、オランダといった国々がサダム政権にこれらの非人道的兵器を武装させ、数千人の犠牲者の苦しみに目をつぶった」と述べたことを報じた。副外務大臣ガリーバーバーディーは「イラクの化学兵器計画は広範な外国の援助によって構築された。ドイツ企業が前駆物質と生産設備を供給し、英国・フランス企業が技術と専門知識を提供し、アメリカは化学兵器使用を公然と非難しながらも情報と兵站支援をサダム政権に提供し続けた」と述べた。
(出典: Tehran Times, “Iran pledges to pursue accountability for Sardasht chemical attack”, 2026年7月, https://www.tehrantimes.com/news/527718/Iran-pledges-to-pursue-accountability-for-Sardasht-chemical-attack; PressTV, “Iran marks 39th anniversary of Sardasht chemical massacre”, 2026年6月28日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/06/28/771266/Iran-marks-39th-anniversary-of-Sardasht-chemical-massacre-demands-accountability-from-Western-enablers

[学術] Bulletin of the Atomic Scientists の分析(2024年7月)は、「1987年以降、イラン軍が化学防御を強化するにつれ、イラクは民間人への攻撃に焦点を移した」と指摘し、1987年6月のサルダシュトへの攻撃(死者130名、化学兵器負傷者8,000名)が「歴史上初めて化学兵器が純粋に民間人に対して明示的に向けられた」事例であったと記している。「国際社会の全般的な沈黙と受動性がフセインを大胆にさせ、大きな国際的帰結をほぼ恐れることなく化学作戦を続行できることを示した可能性が高い」。
(出典: Bulletin of the Atomic Scientists, “Iraq once devastated Iran with chemical weapons as the world stood by”, https://thebulletin.org/2024/07/iraq-once-devasted-iran-with-chemical-weapons-as-the-world-stood-by-governments-still-struggle-to-respond-to-chemical-warfare/

[西側学術] ジャーナリストの Joost Hiltermann は著書 A Poisonous Affair で、イランとイラクの双方による化学兵器使用に関するあいまいさがあったものの、「1996年のCIA文書の機密解除による調査は、イラクが西側──特にアメリカ──の支援のもとで化学兵器使用のイニシアチブをとったことを示した」と結論している。
(出典: Peace-Mark, “Sardasht, a footnote on the 8-year war between Iran and Iraq?”, https://www.peace-mark.org/en/articles/60-8-en/

[米国公式(CIA・DIA機密解除文書)] 2007〜2009年に機密解除され、2013年に Foreign Policy 誌が報じたCIA文書群は、米国がイラクの化学兵器使用について1983年から確実な証拠を保有していたことを示している。CIA極秘文書は「イラクが大量のマスタード剤の新規供給を生産または取得した場合、イラン軍および国境付近の都市に対してほぼ確実に使用するだろう」と記載していた。1988年初頭の4つの主要なイラク攻勢では、米国の衛星画像、地図、イラン軍の位置情報がイラク側に提供されたが、DIA(国防情報局)の関係者はイラクがこれらの情報を化学兵器攻撃と組み合わせて使用することを認識していた。元駐バグダッド武官リック・フランコーナ空軍大佐は「イラク人が神経ガスを使うつもりだとは言わなかった。言う必要がなかった。我々はすでに知っていた」と証言している。ウイルソン・センターの分析によれば、イラクの国連特別委員会(UNSCOM)への自己申告では、1983〜88年に1,800トンのマスタードガス、140トンのタブン神経ガス、600トンのサリン神経ガスが使用された。
(出典: Foreign Policy, “Exclusive: CIA Files Prove America Helped Saddam as He Gassed Iran”, 2013年8月26日, https://foreignpolicy.com/2013/08/26/exclusive-cia-files-prove-america-helped-saddam-as-he-gassed-iran/; CIA Reading Room, “Support to State Department - Possible Chemical Attacks on Iran or Iraq Capital”, 1988年5月, https://cia.gov/readingroom/document/cia-rdp91b00776r000400080012-7; Wilson Center, “Part I: Iraqi Records and the History of Iran’s Chemical Weapons Program”, https://www.wilsoncenter.org/blog-post/part-i-we-attacked-them-chemical-weapons-and-they-attacked-us-chemical-weapons-iraqi

イラン航空655便撃墜(1988年7月3日)のイラン側の記憶と意味づけ

[歴史的事実] 1988年7月3日、米海軍のイージス巡洋艦ヴィンセンスがホルムズ海峡上空を飛行中のイラン航空655便(テヘラン→バンダレ・アッバース→ドバイの定期旅客便、エアバスA300)にミサイル2発を発射し、乗客乗員290名全員(うち66名が12歳未満の子供)が死亡した。
(出典: Wikipedia, “Iran Air Flight 655”; Iran Chamber, “Shooting Down Iran Air Flight 655”)

[IRI公式] 最高指導者府ウェブサイト(khamenei.ir)は「イラン航空655便の乗客290名を殺害した者にレジオン・オブ・メリット勲章が授与された」と題する記事で、ヴィンセンスのロジャーズ艦長がイラン民間航空機撃墜後にアメリカ海軍から「英雄的業績」の勲章を授与されたことを詳述している。勲章引用文は「ロジャーズ艦長のダイナミックなリーダーシップ、論理的判断、卓越した職務への献身は、米海軍の最高の伝統にふさわしいものであった」と記している。
(出典: Khamenei.ir, “Legion of Merit awarded to the one who killed 290 passengers of Iran Air flight 655”, 2016年7月2日, https://english.khamenei.ir/news/2171/Legion-of-Merit-awarded-to-the-one-who-killed-290-passengers

[イラン側の記憶] イラン政府は事件を「大虐殺(massacre)」「明白な冷血の計画的殺人」と呼び、記念切手を発行し、大規模な公開集会で犯罪を糾弾した。モサデグ伝記サイトの記録によれば、米国メディアでは事件のイラン側の説明が広く退けられ、ある新聞は「イランの支配者が意図的にイラン航空655便を危険地帯に送り込み、テヘランの反米感情を再燃させようとした可能性はあるか」と論じ、あるコラムニストは水中に浮かぶ遺体の画像が本物かを疑い「自殺任務で知られる国家がすべてを見せたり語ったりしていない疑いがある」と書いた。
(出典: mohammadmossadegh.com, “Remembering the 290 victims of Iran Air Flight 655”, https://www.mohammadmossadegh.com/news/iran-air-flight-655/remembering-the-victims/

[学術/事実] Britannica によれば、「イランではこの事件は意図的な攻撃として広くみなされ、米国がイラン・イラク戦争でイラクを支持する計画であるという懸念を高めた。この認識はイランが1988年8月にイラクとの停戦を受け入れる決定に影響を与えた」。1989年にイランはICJ(国際司法裁判所)に対米訴訟を提起した。米国は公式には深い遺憾を表明し、1996年に被害者家族に6,180万ドルの賠償金支払いに同意したが、正式な謝罪は行わなかった。
(出典: Britannica, “Iran Air flight 655”, https://www.britannica.com/event/Iran-Air-flight-655

[米国公式(国防総省フォガティ報告書・大統領声明)] 米中央軍司令官ジョージ・クリスト大将の命令により、1988年7月3日に正式調査が開始された。ウィリアム・フォガティ少将による調査報告書(通称フォガティ報告書、53ページ)は1988年8月19日に公開され、ヴィンセンスのイージス・システムの戦闘記録テープの秒単位の分析を実施した。報告書は、旅客機が通常ルートを上昇中であり、当初報告された速度より遅かったことを確認した。にもかかわらず、レーガン大統領はキャンプ・デービッドでの7月4日の声明で事件を「恐るべき人間の悲劇」と呼びつつも、ヴィンセンスは「適切な防衛行動」をとったと述べ、イランが何年も前に停戦を受け入れていればこの事件は回避できたとの見解を示した。米海軍は本事件を「悲劇的で遺憾な事故」と結論づけ、誤認の原因を「ストレスおよびデータの無意識的歪曲」に帰した。ロジャーズ艦長はいかなる処分も受けず、後に功労勲章(レジオン・オブ・メリット)を授与された。
(出典: Wikisource, “Formal Investigation into the Circumstances Surrounding the Downing of Iran Air Flight 655 on 3 July 1988”, https://en.wikisource.org/wiki/Formal_Investigation_into_the_Circumstances_Surrounding_the_Downing_of_Iran_Air_Flight_655_on_3_July_1988/Formal_Report; Responsible Statecraft, “How the downing of Iran Air flight 655 still sparks US-Iran enmity”, 2021年7月2日)

[対照:米側の別の声] ヴィンセンス近くにいた米軍艦のDavid Carlson艦長は米海軍議事録に「明らかに民間航空機であるものを攻撃する意向をヴィンセンスが発表したとき、不信感をもって声を上げたことに驚いた」と書いている。フリゲート艦サイズの艦長も「ヴィンセンスの乗組員はペルシャ湾におけるイージスの有効性を証明する必要性を感じ、実力を見せる機会を渇望していたのだと思う」と述べた。
(出典: Khamenei.ir, 同上記事内の引用)

バスィージ(動員兵)と少年兵の問題

[IRI公式] IRI公式のナラティブでは、バスィージ(国民動員軍)の志願兵──多くが若年者──は「殉教者」として讃えられる。カルバラーのフサインの殉教と結びつけられたこの叙述は、死が敗北ではなく道徳的勝利であるという枠組みを提供した。アーシュラーの追悼儀式は兵士たちがカルバラーの殉教者の道を歩んでいると認識させるよう促した(Part A-3参照)。

[批判的分析] しかし、少年兵の使用──特に「人間の波」戦術における──は国際的に広く批判されてきた。Tehran Times 自身も「戦争の結果、生き残った多くのイランの若者が、戦場での爆発の波による永続的な心理的被害──ペルシャ語で『mowji(波)』として知られる──に苦しんだ」と認めている。殉教ナラティブの政治的利用と、動員された若者の実際の経験との間の緊張は、イラン国内の文学・映画においても探究されている。IranNamag に掲載された分析は、作家 Hossein Mortezaeian Abkenar の小説が「聖なる防衛」の公式ナラティブを「脱聖化」する試みとして位置づけている。
(出典: Tehran Times, 同上; IranNamag, “Desacralizing a Sacred Defense”, https://www.irannamag.com/en/article/desacralizing-sacred-defense-iran-iraq-war-fiction-hossein-mortezaeian-abkenar/

B-5. ラフサンジャーニー/ハータミー政権と改革派の台頭(1989〜2005)

アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー政権(1989-1997)

[IRI公式]
アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー(1989–1997)は、ホメイニー師の死去後、イラン・イスラーム共和国の「戦後復興」を担った人物として位置づけられる。ラフサンジャーニー政権下では、GDPが1989年の812億ドルから1996年の1,100億ドル以上に成長し、イラン経済は「押し付けられた戦争」の傷跡から回復した。彼のスローガンは「経済第一」であり、民間部門の活性化と外国投資の導入を通じて、イランの国際的孤立を緩和しようとした。
(出典: https://english.khamenei.ir/news/4557/Ayatollah-Hashemi-Rafsanjani-A-Farewell-to-a-Comrade-in-Arms

[イラン学術]
ラフサンジャーニーは、ホメイニー師の後継としてアリー・ハーメネイー師を最高指導者に選出する過程で中心的な役割を果たした。また、彼の政権は「実用主義的保守派」として位置づけられ、経済的自由化と社会的な緩和を進めたが、一方で政治的な権威主義を維持した。ラフサンジャーニーは、イスラーム体制内での「経済的近代化」を目指し、世界銀行の構造調整政策を導入して、イランの産業基盤を強化しようとした。
(出典: https://www.britannica.com/biography/Hashemi-Rafsanjani

[イラン学術]
ラフサンジャーニー政権下では、民間企業の育成(例えば、イスラーム・アザード大学の設立)や、インフラ整備(高速道路網の拡充等)が進められた。一方で、司法制度による政治的反体制勢力の弾圧も続けられ、聖職者、左翼活動家、クルド人、バハイ教徒などが処刑された。ラフサンジャーニーは、イランの外交的孤立を打破するため、欧州諸国との関係正常化を目指したが、米国との関係は依然として緊張状態であった。
(出典: https://en.wikipedia.org/wiki/Presidency_of_Akbar_Hashemi_Rafsanjani

ミコノス・レストラン暗殺事件(1992年)とイランの公式見解

[IRI公式]
1992年9月17日、ベルリンのミコノス・レストランにおいて、イラン・クルディスタン民主党(PDKI)の幹部ら4人が暗殺された。ドイツの裁判所は、この暗殺がイラン情報省のアリー・ファラヒヤーン大臣の命令により、ハーメネイー師とラフサンジャーニー大統領の承認の下で実行されたと判断し、国際手配を発令した。イラン側はこの判決を「政治的な陰謀」として否定し、暗殺事件への関与を一貫して否認している。
(出典: https://en.wikipedia.org/wiki/Mykonos_restaurant_assassinations

[IRI公式]
イランの公式見解では、ミコノス事件は「西側諸国によるイランの悪意ある中傷」の一環として位置づけられている。ハーメネイー師は、ラフサンジャーニーを「革命の柱」として称え、その功績を評価しているが、ミコノス事件については、イランの国家主権を侵すものとして批判している。
(出典: https://english.khamenei.ir/news/4557/Ayatollah-Hashemi-Rafsanjani-A-Farewell-to-a-Comrade-in-Arms

モハンマド・ハータミー政権と改革派運動(1997-2005)

[イラン学術]
モハンマド・ハータミー(1997–2005)は、イラン初の「改革派」大統領として、1997年の選挙で70%の票を得て当選した。ハータミーは「法の支配」「市民社会」「言論の自由」をスローガンに掲げ、イスラーム体制内での「穏健な改革」を目指した。彼の支持層は「2nd of Khordad運動」と呼ばれ、若者、女性、知識人層を中心に、社会的・政治的な自由化を求めた。
(出典: https://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Khatami, https://fanack.com/iran/history-of-iran/iran-hope-for-reform-during-khatami-1997-2005/

[イラン学術]
ハータミー政権下では、2000年の議会選挙で改革派が過半数を占め、初の改革派政権が成立した。しかし、保守派が支配する司法府や革命防衛隊(IRGC)による抵抗に直面し、改革派の新聞の閉鎖や、学生運動の弾圧が行われた。特に、1999年のテヘラン大学における学生デモ(7月9日事件)は、保守派と改革派の対立の象徴となった。
(出典: https://iranwire.com/en/features/64584/

[IRI公式]
ハータミー政権は、イスラーム体制内での「改革」を目指したが、最高指導者の権限が優先されるイランの政治体制において、大統領の権限は限られていた。ハーメネイー師は、ハータミーの改革運動について「イスラーム体制の枠内で行われるべき」との立場を示し、改革派の急進的な動きには批判的であった。
(出典: https://english.khamenei.ir/news/1155/Leader-Riot-Leaders-Are-Responsible-for-Bloodshed

イランの核計画の起源(1980年代)と公式見解

[IRI公式]
イランの核計画は、1950年代にモハンマド・レザー・シャーの下で、米国の「Atoms for Peace」プログラムの一環として始まった。テヘラン研究炉(1967年)の建設や、ブシェール原子力発電所の計画が進められたが、1979年のイスラーム革命後、これらの計画は中断された。イラン・イラク戦争中(1980-1988)、イラクによる化学兵器の使用を受け、イランは「防衛的な核抑止力」の必要性を痛感し、1980年代後半に核計画を再開した。
(出典: https://www.history.com/articles/iran-nuclear-weapons-eisenhower-atoms-for-peace

[米国公式(大統領演説・国務省・エネルギー省記録)] イランの核計画の起源は、1953年12月8日のアイゼンハワー大統領による国連総会での「平和のための原子力(Atoms for Peace)」演説に遡る。同演説で大統領は、原子力の軍事的危険と平和的利用の可能性の双方を認識し、核技術と教育資源を平和的目的で各国に提供する構想を提示した。1957年3月5日、米国とイランは「原子力の民生利用に関する協力協定(Cooperation Concerning Civil Uses of Atoms)」に署名した。1967年には米国がテヘラン大学に5メガワットの研究用原子炉と高濃縮ウラン燃料を供給した。1974年にはニクソン大統領がイランの原子炉建設を支援する専門家をテヘランに派遣し、マサチューセッツ工科大学(MIT)でイラン人核科学者の修士課程訓練が実施された。すなわち、米国が現在懸念の対象とするイランの核計画の基盤は、米国自身の政策によって築かれたものである。
(出典: Brookings, “Sixty Years of ‘Atoms for Peace’ and Iran’s Nuclear Program”, https://www.brookings.edu/articles/sixty-years-of-atoms-for-peace-and-irans-nuclear-program/; Wilson Center, “Atomizing Iran: Eisenhower and the Bomb”, https://www.wilsoncenter.org/blog-post/atomizing-iran-eisenhower-and-the-bomb; NPR, “Born In The USA: How America Created Iran’s Nuclear Program”, 2015年9月18日)

[IRI公式]
ハーメネイー師は、イランの核計画について、「核兵器の開発・保有はイスラームの教えに反する」とのファトワー(宗教的勅令)を発しており、イランは「平和的な核技術の利用」を目指していると強調している。また、イランは「中東非核地帯」の実現を提唱し、核兵器の廃絶を訴えている。
(出典: https://english.khamenei.ir/news/4749/Nuclear-energy-for-all-nuclear-weapons-for-none-Ayatollah

[IRI公式]
イランの公式見解では、核計画は「国家の主権」と「科学技術の発展」の象徴として位置づけられている。ハーメネイー師は、米国がイランの核計画を「核兵器開発」と中傷することに対し、「イランは核兵器を目指していない」と繰り返し否定している。
(出典: https://english.khamenei.ir/news/11746/Iran-has-its-own-sovereignty-and-its-enrichment-is-none-of-US

B-6. 制裁と核開発(1990年代〜2015)

イランの核開発のイラン側の論理

[IRI公式] イランの核開発に関するイラン側の公式的立場は、一貫して「平和的核エネルギーの権利」に基づいている。Tehran Times は「イランが核計画を放棄すべきだという期待は明白な二重基準である。イランはNPT(核不拡散条約)の締約国であり、IAEAによる査察を一貫して許可してきた。逆にイスラエルは核兵器を保有しているが、NPTに署名したことがなく、核施設の国際的査察を許可していない。しかしイスラエルに兵器の放棄を要求する声はない」と論じている。
(出典: Tehran Times, “Iran’s nuclear program: double standards of Western pressure”, 2025年4月9日, https://www.tehrantimes.com/news/511107/Iran-s-nuclear-program-double-standards-of-Western-pressure

[IRI公式] PressTV の報道によれば、イランの国連大使イラーヴァーニーは「イスラム共和国のNPTへの長年にわたるコミットメント」を再確認し、「米国と欧州三国(英仏独)が『イスラエル政権の捏造』をイスラム共和国の平和的核エネルギー計画に関して繰り返し反響させる一方、テルアビブの核兵器保有と国際的監視の拒否を無視している」と述べた。さらに「NPTと保障措置義務を完全に遵守しているだけでなく、イランはJCPOA(包括的共同行動計画)にも決して違反していない」と主張した。
(出典: PressTV, “Iran slams ‘systemic double standards’ in nuclear arena”, 2025年11月14日, https://www.presstv.ir/Detail/2025/11/14/758832/Iran-nuclear-attacks-United-States-Israel-IAEA

[学術/分析] NPT第4条は、締約国が国際的監視のもとで平和的核エネルギーと濃縮を行う権利を明示的に認めている。イランはこの権利を行使していると主張する。批判者は濃縮が核兵器製造への接近をもたらしうると主張する。Al Jazeera の分析は「両方の主張が同時に真でありうる」と指摘している。中東はすでに暗黙の核不均衡のもとにある──イスラエルは80〜90発の核弾頭を保有すると推定されているが(SIPRI)、NPT加盟国ではない。イランはNPTに署名し、核計画の一部への国際的査察を許可している。「一方の国が条約義務なしに核兵器を保有すると広く信じられ、もう一方が民生用と主張する核能力の開発で制裁と脅威に直面する。法的構図と政治的構図はきれいには整合しない」。
(出典: Al Jazeera, “Double standards? Why Israel’s nukes get a pass while Iran is scrutinised”, 2026年4月16日, https://www.aljazeera.com/news/2026/4/15/double-standards-why-irans-nukes-are-scrutinised-israel-gets-a-pass

制裁がイラン市民の生活に与えた影響

[学術] Oxford Human Rights Hub(OHRH)の分析は、「米国の一方的な経済制裁の課徴の結果として、イラン国民は人道的脅威に直面してきた。特に医薬品・医療物資・医療へのアクセスの欠如、貧困、高インフレ、高失業率」と記している。「これらはすべて、国連の経済的・社会的・文化的権利に関する国際規約第11条(1)に含まれる『適切な生活水準への権利』の問題である」。
(出典: OHRH, “Civilian Life at Risk in Iran”, https://ohrh.law.ox.ac.uk/civilian-life-at-risk-in-iran-the-hard-hitting-effects-of-the-us-economic-sanctions/

[国際機関/人権団体] Human Rights Watch は2019年のレポート「最大限の圧力」で、「トランプ政権がイランに課した無期限かつ包括的な制裁は、イランの一般市民の人道的ニーズと人権の享受に悪影響を及ぼしてきた」と記している。「制裁がイランの食料と医薬品へのアクセスに与える有害な影響は、他の制裁レジームで観察された同様の影響に鑑みれば驚くべきことではない」。2019年7月、国連のイラン人権状況特別報告者は「制裁と銀行取引制限が食料安全保障と医薬品・医薬品機器の入手可能性・流通に過度に影響を与える」ことへの懸念を表明した。
(出典: HRW, “‘Maximum Pressure’: US Economic Sanctions Harm Iranians’ Right to Health”, https://www.hrw.org/report/2019/10/29/maximum-pressure/us-economic-sanctions-harm-iranians-right-health

[学術] PMC(PubMed Central)に掲載された系統的レビュー(2018年)は「制裁はイランの歳入の減少、国内通貨の切り下げ、インフレと失業の増加を引き起こした。これらすべてが人々の全般的な福祉の悪化と、栄養のある食料・医療・医薬品といった生活必需品へのアクセス能力の低下をもたらした。銀行・金融システム・輸送に対する制裁は、質の高い救命医薬品の不足につながった。制裁の影響は貧困層、患者、女性、子供の生活により甚大であった。人道的免除はイラン人を制裁の悪影響から保護しなかった」と結論している。さらに「実際的な観点からは、銃撃で死ぬことと救命医薬品を奪われて死ぬことの間に違いはない」と記している。
(出典: PMC, “Assessment of the Effects of Economic Sanctions on Iranians’ Right to Health”, https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5953521/

[分析/2026年] Arab Center DC の2026年6月の分析は、「2026年の戦争以前から、イランは制裁に起因するまたは悪化した複数の交差する人道的課題に直面していた。国民一人当たり所得は2012年の8,000ドルから2024年の5,000ドルに低下した」「他国(キューバ、リビア、イラク)に課された制裁レジームからの証拠は、制裁の明示された目的である体制の行動変容の強制はほとんど達成されない一方、人道的帰結は常に広範であることを示している。制裁は典型的に、対象住民の中で最も脆弱な市民に影響を与え、政治に関する決定を行い経済を支配するエリートはめったに同じように苦しまない」と分析している。
(出典: Arab Center DC, “The Humanitarian Impact of the War on Iran”, 2026年6月9日, https://arabcenterdc.org/resource/the-humanitarian-impact-of-the-war-on-iran/

「すべての選択肢はテーブルの上にある」に対するイラン側の受け止め

[IRI公式/分析] 「すべての選択肢はテーブルの上にある(All options are on the table)」というアメリカの繰り返しの発言は、イラン側では軍事攻撃を含む脅迫として受け止められている。Tehran Times の「超外交的論説」は「他者は我々とのすべての問題を単一の外交的枠組みの中で解決しようとし、外交を交易のルールによってのみ理解する」と批判し、「7000年の文明にとって自然な」四層の対処法が存在すると主張している。イラン側にとって、この繰り返しの脅迫は「交渉しても、最終的には力による脅迫に戻る」というパターンの確認として機能している。
(出典: Tehran Times, “It is just a supradiplomatic op-ed”, 2026年5月25日, https://www.tehrantimes.com/news/526784/It-is-just-a-supradiplomatic-op-ed

[米国公式(大統領令・議会記録)] イランに対する米国の制裁は、1979年の人質危機を契機とする大統領令12170号(資産凍結)に始まり、以後40年以上にわたり段階的に拡大された。主要な法的枠組みには、包括的イラン制裁・説明責任・投資撤退法(CISADA, 2010年)、大統領令13574号(2011年)、大統領令13902号(2020年1月)等が含まれる。これらは「イランの核計画の阻止」「テロ支援活動の抑制」「人権侵害への対応」を公式な目的として掲げているが、イラン側が主張する一般市民への人道的影響については、米国政府は制裁に「人道的免除」が含まれると繰り返し主張してきた。ただし、Human Rights Watch(2019年)やPMC掲載の系統的レビュー(2018年)が指摘するように、実務上は銀行・金融制裁が食料・医薬品の調達を阻害する効果をもたらしており、「人道的免除はイラン人を制裁の悪影響から保護しなかった」とされる(B-6本文参照)。

NPTの二重基準──イスラエルの核保有が不問に付されていることへのイラン側の主張

[IRI公式] イランの一貫した主張は、核不拡散体制における「体系的な二重基準(systemic double standards)」の存在である。イラン国連大使は「開発途上国を制限しながら、イスラエル政権──宣言されていない大量破壊兵器の保有物を持つNPT非加盟の実体──に政治的・軍事的・核的な保護を与える、固定化された二重基準」を非難した。さらに「これらの慣行は不拡散を保護しない。それはそれを侵食し、機関の技術協力の任務を根本的に損なう」と述べた。
(出典: PressTV, “Iran slams ‘systemic double standards’ in nuclear arena”, 同上)

[報道:Al Jazeera] Al Jazeera の分析(2026年4月)は、「過去10か月間にイスラエルと米国はイランに対して2つの戦争を遂行し、イランが核兵器を製造する能力を持つ寸前であったという証拠なき主張を行った。これらの戦争は2,600人以上のイラン人を殺害し、世界を前例のないエネルギー危機に突入させた」と報じた。「この不均衡はイランによる二重基準の訴えを促した」。
(出典: Al Jazeera, 同上)

[IRI公式] Javad Zarif 元外務大臣はForeign Policy 誌への寄稿(2025年8月)で、「イランは数十年にわたりグローバルな安定に重大な貢献をしてきた。国連の創設メンバーとして、画期的なイニシアチブを後援してきた:1974年の中東非核兵器地帯提案、1997年の『文明間の対話』、2015年のJCPOA。悲劇的なことに、世界の主要大国はこれらのイランの提案を一貫して損なってきた」と述べた。
(出典: Foreign Policy, “Javad Zarif: The Time for a Paradigm Shift Is Now”, 2025年8月15日, https://foreignpolicy.com/2025/08/15/javad-zarif-iran-diplomacy-war-united-states/

B-7. JCPOA(核合意)とその破棄(2015〜2018)

JCPOAをイラン側はどう位置づけたか

[IRI公式/多元的] JCPOAに対するイラン国内の評価は一枚岩ではなく、深い対立を内包していた。Carnegie Endowment の分析(2025年10月)によれば、「イラン国内では、JCPOAは派閥対立を激化させた。最高指導者ハメネイ師とIRGCに率いられた保守体制は、合意がローハニ大統領のもとの『穏健派』に報いるよう設計され、国内の権力均衡を傾けるものだと恐れた」。ローハニとその同盟者は核計画を米国との関係を正常化するための交渉カードとして使い、国際的にイスラム共和国の立場を正常化しつつ国内的地位を強化しようとした。「市民の反応──街頭での祝賀や核問題の解決を約束する候補者への投票──は、市民がJCPOAを軍備管理合意としてではなく、米国との関係改善へのチケットとして見ていたことを示唆した」。
(出典: Carnegie Endowment, “An Obituary for the JCPOA”, 2025年10月, https://carnegieendowment.org/posts/2025/10/iran-deal-jcpoa-obituary?lang=en

[IRI公式] ハメネイ師はJCPOAの交渉開始を「英雄的柔軟性(heroic flexibility)」の政策として許可したが、合意そのものには常に懐疑的であった。RAND Corporation の分析によれば、ハメネイ師は「アメリカのJCPOAへのコミットメントに疑念を表明し続け」、合意がイラン国内の政治改革勢力を後押しすることを恐れていた。ハメネイ師は交渉チームがアメリカ側に自身のレッドラインのいくつかを越えさせられたと批判し、これがローハニ批判者に核合意を攻撃するさらなる機会を提供した。元核交渉官サイード・ジャリーリーはJCPOAを「完全な損失」と呼んだ。
(出典: RAND Corporation, “Perspective: Iran after the JCPOA”, https://www.rand.org/content/dam/rand/pubs/perspectives/PE200/PE218/RAND_PE218.pdf

ローハニ政権の国内での批判

[分析] Washington Institute の分析(2019年11月)によれば、「ローハニの批判者は、制裁を段階的に解除する合意を政府が追求することさえ望んでいなかった」。保守強硬派とハメネイ師自身が「過去数年にわたりこれらの派閥を政治的ループから追い出すために多大なコストを費やしており」、ローハニの成功は改革派を含む連合の復権を意味するためであった。ORF(インドのシンクタンク)の分析も「米国がイランを窮地に追い込み続けているという指摘は──金融制裁やイラン企業と取引する銀行への数十億ドル規模の罰金の脅威が維持されている──経済環境の悪化に対する国民の反発を生み、体制内の強硬・保守派を勢いづけた」と記している。
(出典: Washington Institute, “Rouhani’s Shifting Argument for Preserving the JCPOA”, https://www.washingtoninstitute.org/policy-analysis/rouhanis-shifting-argument-preserving-jcpoa; ORF, “Beyond JCPOA”, https://www.orfonline.org/research/42050-beyond-jcpoa-examining-the-consequences-of-u-s-withdrawal

トランプの一方的離脱(2018)に対するイラン側の反応

[米国公式(大統領声明・国務省)] 2018年5月8日、トランプ大統領はホワイトハウス外交レセプションルームでの演説で、JCPOAからの米国の離脱を発表した。トランプは「イランの核合意の核心は巨大な虚構であった──殺人的な体制が平和的な核エネルギー計画のみを望んでいるという虚構」と述べ、イスラエルが公開した情報を根拠に「この約束が嘘であったことの決定的な証拠」があると主張した。ポンペオ国務長官は同年5月、12項目のイランへの要求を提示し、「最大限の圧力(maximum pressure)」戦略を発表した。これにはイランの石油輸出ゼロ化、すべてのウラン濃縮の停止、弾道ミサイル計画の中止、中東全域での「代理勢力」への支援停止等が含まれた。なお、IAEA(国際原子力機関)はJCPOA離脱時点でイランがJCPOAを遵守していたことを確認しており、ポンペオ国務長官自身も「イランの遵守に関する反証はない」と認めていた。2018年8月6日、トランプは制裁再発動の大統領令に署名し、イランの米ドルへのアクセス禁止、金・貴金属取引の禁止等を含む第一弾の制裁が発効した。
(出典: White House, “Remarks by President Trump on the Joint Comprehensive Plan of Action”, 2018年5月8日; Atlantic Council, “Trump’s JCPOA Withdrawal Two Years On”, 2020年5月, https://www.atlanticcouncil.org/in-depth-research-reports/issue-brief/trumps-jcpoa-withdrawal-two-years-on-maximum-pressure-minimum-outcomes/; Wikipedia, “United States withdrawal from the Joint Comprehensive Plan of Action”)

[IRI公式] 2018年5月8日のトランプ大統領によるJCPOA離脱に対し、ハメネイ師は「アメリカ大統領が昨夜言った無価値なことを聞いたか」とテレビ演説で述べた。議会ではJCPOAのコピーと米国旗が燃やされた。活動家はローハニとザリーフ外相の辞任を要求した。Time 誌の報道によれば「若いイラン人たちは、強硬派が最初からアメリカについて正しかったのではないかと考えている」。ハメネイ師は「私はいつも(アメリカへの信頼は)間違いだと言ってきた。今あなた方はそれが本当だとわかった。我々はJCPOAを受け入れたが、彼らはイスラム共和国への敵意を続けた」と述べた。
(出典: Time, “Iran Reacts to Trump’s Decision to Quit Nuclear Deal”, https://time.com/5270821/iran-nuclear-deal-trump-ayatollah-khameini-hassan-rouhani/

[IRI公式] ISNA(イラン学生通信社)によれば、ラーリージャーニー国会議長はトランプの発言を「性急で安っぽい」と形容し、「トランプ氏には問題に対処する精神的能力がなく、この人物にとっては力の言葉がより効果的であるようだ」と述べた。ローハニ大統領は離脱前の時点で「米国がJCPOAからの離脱を選択すれば、ワシントンにこの行為がもたらす歴史的な後悔をすぐに目にすることになる」と警告していた。
(出典: ISNA via GlobalSecurity, “Iranian officials’ reactions to US’ withdrawal from JCPOA”; PressTV via GlobalSecurity)

[分析] Atlantic Council の分析(2018年9月)は、トランプの離脱後のイランの地域政策を3つの段階に区分している:(1) JCPOA後・トランプ就任前、(2) トランプ就任から離脱まで、(3) 2018年5月の離脱後。「イランの強硬派は歴史的な合意──彼らの不釣り合いな政治的・経済的影響力を抑制する役割を果たしていた──を深刻な後退と見なしていた」。離脱後、「ローハニの外交政策上の主要な業績は事実上無効化され」、強硬派の立場が国内政治で優勢となった。
(出典: Atlantic Council, “Iran More Assertive Regionally After Trump Withdrawal From JCPOA”, https://www.atlanticcouncil.org/blogs/iransource/iran-more-assertive-regionally-after-trump-withdrawal-from-jcpoa/

「交渉しても裏切られる」という教訓がイラン政治にどう作用したか

[分析/コンセンサス] トランプのJCPOA離脱は、イラン国内で「西側と交渉しても最終的には裏切られる」という歴史的教訓を強化する決定的な事件となった。Britannica によれば、「欧州三国(仏英独)がイランのJCPOA遵守に対する制裁の影響を軽減しようと努力したにもかかわらず、米国の制裁の広範な影響がイラン経済を荒廃させた」。ローハニは2019年5月にイランがJCPOAの義務を段階的に縮小すると発表したが、制裁緩和と引き換えにこれらの措置を撤回すると約束した。Carnegie の分析はこの教訓を1953年のクーデター、立憲革命の挫折と並ぶ「主権行使を外部が潰す」パターンの最新版として位置づけている。
(出典: Britannica, “JCPOA”, https://www.britannica.com/event/Joint-Comprehensive-Plan-of-Action; Carnegie, 同上)

B-8. ソレイマニ暗殺〜現在(2020〜2026)

ガーセム・ソレイマニのイラン国内での位置づけ

[IRI公式] イラン当局と国営メディアはソレイマニを地域における最も重要な「反テロリズム」の人物として描写し、「シリアとイラクの双方における西側の干渉の醜い顔を暴露した」人物として称えた。ソレイマニは「心の司令官(sardar-i dilha)」と呼ばれた。ローハニ大統領は暗殺一周年に「彼は穏健な人物だった。この路線にもあの路線にもいなかった。右でも左でもなかった……いかなる派閥も殉教者ソレイマニを自分たちのものと見なすことはできない。殉教者ソレイマニは国民的英雄であり、イラン国民全体、地域の諸国民、革命的ムスリムにとっての名誉である」と述べた。
(出典: Oxford Academic, “Messaging Soleimani’s killing”, https://academic.oup.com/ia/article/99/6/2465/7280011

[多元的反応] ただし、同じ Oxford Academic の研究は、ペルシャ語圏の衛星放送チャンネルにおける解説者の反応を分析し、「イスラム共和国はイラン人の解説者の間で愛国心の顕著な高まりから恩恵を受けなかった。実際、一部は公然と攻撃を歓迎した」ことを明らかにしている。Wikipedia によれば「彼の死に対するイラン国内の市民の反応は混合していた。死が確認されると、一部のイラン市民は街頭に出て祝った」。
(出典: Oxford Academic, 同上; Wikipedia, “Assassination of Ali Khamenei” ─ ソレイマニへの反応に言及)

暗殺の国際法上の問題についてのイラン側の主張

[IRI公式] 2026年1月(暗殺6周年)、イラン国連大使イラーヴァーニーは国連事務総長と安保理メンバーへの書簡で、暗殺を「卑劣なテロ行為」「国際法の明白な違反」と呼び、「この犯罪的かつ違法な行為に対する米国の全面的な責任」を強調した。
(出典: PressTV via GlobalSecurity, “Iran says US assassination of Gen. Soleimani was a cowardly act of terrorism”)

[国際法学者] EJIL: Talk!(European Journal of International Law)の分析は、国連憲章第2条(4)の武力行使禁止原則と第51条の自衛権の例外を検討し、自衛の例外は「武力攻撃が発生した」場合にのみ適用され、ICJがその攻撃は「重大」でなければならないと強調していることを指摘した。国連の超法規的殺害に関する特別報告者アニェス・カラマールは、ソレイマニの殺害は「違法」であったと結論づけた。JURIST(法律解説サイト)は「米国の攻撃は国際法上の殺人と見なされる。一国のクッズ部隊長である将軍への攻撃はイランの主権の侵害に等しい」と分析している。
(出典: EJIL: Talk!, “The Killing of Soleimani and International Law”, https://www.ejiltalk.org/the-killing-of-soleimani-and-international-law/; JURIST, “The Killing of General Soleimani – A Blatant Violation of International Laws”, https://www.jurist.org/commentary/2020/04/archit-shukla-general-soleimani-international-law/

[米国公式(国防総省声明・大統領声明・議会記録)] 2020年1月3日の攻撃直後、米国防総省(DoD)は声明を発表し、「ソレイマニ将軍はイラクおよび地域全体で米国の外交官と軍人を攻撃する計画を積極的に策定していた」と主張し、クッズ部隊による数百名の米軍・連合軍兵士の殺害、連合軍基地への攻撃、バグダッドの米国大使館への攻撃に対するソレイマニの責任を指摘した。トランプ大統領は「この攻撃は戦争を始めるためではなく、戦争を止めるために行われた」と述べた。しかし、下院外交委員会エンゲル委員長は、政権が議会に提出した法的根拠報告書について「大統領がアメリカ国民に示した『差し迫った攻撃を防ぐため』という正当化は虚偽であった」と批判し、政権が2002年イラク戦争承認決議(AUMF)を法的根拠として援用したことを「不合理」と断じた。議会調査局(CRS)の報告書は、法的根拠をめぐる議論を整理し、AUMF、戦争権限法、秘密工作法による権限付与の可能性と限界を検討した。エスパー国防長官は就任時の上院軍事委員会公聴会で、2001年AUMFも2002年AUMFもイランへの軍事力行使の権限を与えないと証言しており、攻撃後の法的根拠との矛盾が指摘された。
(出典: DoD Statement, 2020年1月3日; Just Security, “The Targeted Killing of General Soleimani: Its Lawfulness and Why It Matters”, 2020年10月, https://www.justsecurity.org/67949/the-targeted-killing-of-general-soleimani-its-lawfulness-and-why-it-matters/; House Foreign Affairs Committee, “Engel Statement on the White House’s Latest Justification for Soleimani Killing”, 2020年2月, https://democrats-foreignaffairs.house.gov/2020/2/engel-statement-on-the-white-house-s-latest-justification-for-soleimani-killing; CRS Report R46148, https://www.congress.gov/crs_external_products/R/PDF/R46148/R46148.6.pdf

[対照:米側の法的主張] 米国はソレイマニの殺害を自衛行為と主張したが、SSRN掲載の学術論文(Talmon & Heipertz, 2020年)は「米国は国連安保理への報告で先制的自衛や差し迫った武力攻撃には言及しなかった」と指摘し、「差し迫った脅威」のレトリックは国内向け(大統領の戦争権限に関する憲法上の議論)であった可能性を示唆している。
(出典: SSRN, “The U.S. Killing of Iranian General Qasem Soleimani”, https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3530273

2022年マフサー・アミニ事件と「女性・命・自由」運動

イラン当局の公式説明──死因をめぐる主張

[IRI公式(法医学機関)] イラン法医学機関(Iran’s Forensic Organization)は2022年10月7日、公式検視報告を発表し、「マフサー・アミニの死は頭部および身体の重要臓器・四肢への打撃によるものではない」と結論づけた。報告書は死因を「脳低酸素症(cerebral hypoxia)に起因する多臓器不全」とし、8歳時の脳腫瘍手術に関連する「基礎疾患(underlying diseases)」が原因であると主張した。国営テレビはCTスキャンと病理検査の結果を含む報告書を放送した。
(出典: Al Jazeera, “Iranian coroner denies Mahsa Amini died from blows to body”, 2022年10月7日, https://www.aljazeera.com/news/2022/10/7/iranian-coroner-denies-mahsa-amini-died-from-blows-to-body; RFE/RL, “Iranian Forensic Report Denies Amini Died From Injuries”, https://www.rferl.org/a/iran-forensic-report-denies-amini-death-injuries/32069928.html

[IRI公式(警察)] テヘラン警察司令官フセイン・ラヒーミーは2022年9月19日のメディアインタビューで「今回の件では(ボディカメラが)装備されていなかった」と述べ、アミニの家族には監視カメラ映像へのアクセスが許可されたと主張した。しかし父親はこの主張を否定し、「護送車両内およびヴォザラー拘置所の構内カメラの映像へのアクセスを要求したが、拒否された」と述べた。
(出典: Amnesty International, Public Statement MDE 13/6060/2022, https://www.amnesty.org/en/wp-content/uploads/2022/09/MDE1360602022ENGLISH.pdf

[IRI公式(当局初期対応)] 事件発生直後の2022年9月15日、テヘラン警察情報センターはマフサー・アミニが「心臓発作」を起こしたと発表したが、証拠は提示しなかった。当局は同日、国営メディアを通じて、アミニとされる女性が拘置所内で突然倒れる監視カメラ映像を公開し、目撃者の暴行証言を否定しようとした。
(出典: Amnesty International, 同上; NBC News, “Mahsa Amini did not die from blows to body, Iranian coroner says”, 2022年10月7日, https://www.nbcnews.com/news/world/mahsa-amini-death-iran-morality-police-protests-coroner-report-rcna51169

[対照:家族・目撃者の証言] アミニの家族は「基礎疾患」の存在を一貫して否定し、彼女は逮捕前に完全に健康であったと主張した。母親は死亡前の2022年9月16日のメディアインタビューで、心臓発作を説明する医学的状態はなかったと述べた。目撃者(アミニとともに拘束されていた女性たち)は、護送車両内での暴行を証言した。Iran International は、ハメネイ師の主治医フェレイドゥーン・ヌーヒー博士が、アミニに心臓疾患の既往歴があったことを証明する偽の医療記録の作成を少なくとも3名の心臓専門医に依頼したと報じた。
(出典: Iran International, “Khamenei Doctor Sought To Forge Mahsa Amini’s Records”, 2022年9月25日, https://www.iranintl.com/en/202209256799; Amnesty International, 同上)

ハメネイ師および当局の抗議運動に対する公式見解

[IRI公式(ハメネイ師・第一声明)] 2022年10月3日、最高指導者ハメネイ師はテヘランの警察学校で初めて公式にアミニの死に言及し、「彼女の死は我々の心を深く痛めた」「悲しい事件(bitter incident)」と述べた。しかし同時に、抗議運動を「暴動(riots)」と断じ、「この暴動は計画されたものだ。これらの暴動と不安定化はアメリカとシオニスト政権、およびその被雇用者によって設計された」と述べた。ハメネイ師はヒジャブを脱ぐ抗議者やモスク・銀行・警察車両に放火する行為を「正常ではない、不自然な行為」と描写し、治安部隊への全面的な支持を表明した。
(出典: Euronews, “Mahsa Amini: Supreme leader blames unrest on foreign plot”, 2022年10月4日, https://www.euronews.com/2022/10/04/mahsa-amini-supreme-leader-ayatollah-ali-khamene-blames-unrest-on-foreign-plot-to-destabil; CBC News, “Iran’s supreme leader blames U.S., Israel for Mahsa Amini protests”, 2022年10月3日, https://www.cbc.ca/news/world/iran-ayatollah-ali-khamenei-mahsa-amini-protest-1.6603871

[IRI公式(ハメネイ師・第二声明)] 2022年10月12日、ハメネイ師は便宜評議会との会合で「今日、すべての人がこれらの街頭暴動への敵の関与を認めている」と述べ、「プロパガンダ、思想への影響の試み、興奮の創出、焼夷物の製造の奨励と教授といった敵の行為は、今や完全に明白である」と主張した。
(出典: Times of Israel, “Khamenei says ‘enemies’ involved in protests”, 2022年10月12日, https://www.timesofisrael.com/khamenei-says-enemies-involved-in-protests-following-death-of-mahsa-amini/

[IRI公式(ハメネイ師・第三声明)] 2022年11月2日、ハメネイ師は抗議運動を「ハイブリッド戦争(hybrid war)」と表現し、「街頭に出た若者たちは我々自身の子供たちだ」と述べつつも、外国勢力による操作であるとの立場を維持した。2023年4月にはさらに「ヒジャブの拒否は宗教的にも政治的にも禁じられている」と述べ、ヒジャブを脱ぐ女性は「外国諜報機関に門戸を開く」と警告した。
(出典: Wikipedia, “Mahsa Amini protests”, https://en.wikipedia.org/wiki/Mahsa_Amini_protests

[IRI公式(情報省・IRGC情報機関共同声明)] 2022年10月28日、情報省とIRGC情報機関は共同声明を発表し、事件を報道した記者ニルーファル・ハメディーとエルアヘ・モハンマディーを「海外の特別コースで訓練された」人物として告発した。テヘラン・ジャーナリスト協会はこの告発を非難し、「ジャーナリズムは犯罪として宣言され禁止されるべきだと言っている以外のメッセージはない」と声明した。情報機関は2人の記者の渡航歴や外国組織との関係について証拠を提示しなかった。
(出典: Iran International, “Tehran Journalists Defend Female Reporters From Official Defamation”, 2022年10月30日, https://www.iranintl.com/en/202210301444

[IRI公式(外務省)] 2022年10月18日、外務省報道官ナーセル・カナーニーはEU制裁を「人権を政治的目的達成のための道具として利用するもの」と非難した。2025年9月(アミニ死亡3周年)には、外務省はアミニの死に関する米国の声明を「偽善的で欺瞞的」と非難し、「1953年のCIAによるクーデター、イラン・イラク戦争中のサダム・フセインへの支援、1988年のイラン旅客機撃墜、長年の制裁」を列挙して、「イランの内政に干渉し、イラン人に対する犯罪を犯してきた長い歴史を持つ政権の友情と同情の主張を、理性的で愛国的なイラン人は決して信じない」と述べた。
(出典: Iran International, “Tehran slams US ‘hypocrisy’ over Mahsa Amini anniversary message”, 2025年9月16日, https://www.iranintl.com/en/202509169931; Wikipedia, “Mahsa Amini protests”, 同上)

西側メディア報道とイラン側の受け止めのギャップ

[分析] IRI公式の枠組みでは、事件は以下のように構成されている:(1) アミニの死は「基礎疾患」による不幸な出来事であり、暴行はなかった、(2) 抗議運動は国内の不満の自然な表出ではなく、米国・イスラエルが設計した「ハイブリッド戦争」であった、(3) 事件を報道した記者は「外国で訓練された工作員」であった、(4) 西側の人権批判は「二重基準」と「内政干渉」である。

[対照:国際調査機関] 2024年2月、国連人権理事会が設置した独立国際調査ミッション(FFM)は報告書で、イラン当局が抗議者に対して行った人権侵害の多くが「人道に対する犯罪に相当する」と結論づけた。報告書は、治安部隊による突撃銃、金属ペレット弾、催涙ガスの広範な使用を記録し、少なくとも500名以上の抗議者・傍観者の殺害(うち数十名が子供)、2万名以上の拘束を記録した。
(出典: Amnesty International, “Iran: Two years after ‘Woman Life Freedom’ uprising”, 2024年9月, https://www.amnesty.org/en/latest/news/2024/09/iran-two-years-after-woman-life-freedom-uprising-impunity-for-crimes-reigns-supreme/; US State Department, Joint Statement, 2024年9月16日, https://2021-2025.state.gov/joint-statement-two-years-after-mahsa-zhina-aminis-death/

[対照:イラン国内の市民的不服従の継続] Center for Human Rights in Iran(CHRI)の2024年9月の調査によれば、大規模抗議が鎮圧された後も、イラン女性によるヒジャブ拒否は「静かな革命」として日常化している。インタビューに応じた女性たちは「新しい世代には反抗、自由への欲求、時代遅れの考えからの解放がある。この世代に大きな希望を持っている」と述べている。
(出典: Center for Human Rights in Iran, “A Quiet Revolution Continues in Iran”, 2024年9月, https://iranhumanrights.org/2024/09/a-quiet-revolution-continues-in-iran-two-years-after-the-woman-life-freedom-uprising/

「女性・命・自由」スローガンの起源

[歴史的事実] 「女性・命・自由(زن، زندگی، آزادی / Zan, Zendegi, Azadi)」はクルド語の女性運動スローガン「Jin, Jiyan, Azadi」に由来する。2022年9月のサッケズでのアミニの葬儀で、女性たちがヒジャブを脱ぎながら初めてこのスローガンを唱え、その後全国に広がった。
(出典: Princeton Digital PUL, “Woman Life Freedom Movement: Iran 2022-2023”, https://dpul.princeton.edu/woman-life-freedom-movement-iran-2022

2025年2月28日〜:米国・イスラエルによる攻撃とハメネイ師暗殺

イラン側の公式声明と法的主張

[IRI公式] 2026年2月28日、米国とイスラエルはイランに対する協調的軍事攻撃を開始した。同日、イスラエルの空爆によりハメネイ師がテヘランの最高指導者府で暗殺された。家族4名も同時に殺害された。イスラエル軍の声明によれば、作戦「Roaring Lion」の最初の波で約40名の上級軍事司令官が「1分以内に」殺害された。確認されている主要な死者には、IRGC総司令官モハンマド・パクプール、国防大臣アジーズ・ナーシルザーデ、ハメネイ師顧問アリー・シャムハーニー、軍参謀総長アブドルラヒーム・ムーサヴィーが含まれる。3月以降も追加攻撃が続き、情報大臣代理、IRGC報道官、バスィージ司令官等が殺害され、Iran Internationalの集計では少なくとも52名の上級当局者・司令官の死亡が確認されている。Wikipedia によれば、CIA がハメネイ師の所在と行動パターンを数か月にわたり追跡し、高官会議の開催情報に基づいて攻撃が計画された。ペゼシュキアン大統領は暗殺を「大いなる犯罪」と呼び、「回答なしには終わらない」と述べた。
(出典: Wikipedia, “Assassination of Ali Khamenei”, https://en.wikipedia.org/wiki/Assassination_of_Ali_Khamenei

[IRI公式] イラン国連大使は以前から、イスラエル・アメリカによるイランの保障措置下の核施設への攻撃を「前例のない侵略行為」と非難しており、「IAEAの理事会における政治的に動機づけられた決議のわずか数時間後に、イスラエル政権が完全に監視されていた施設に大規模な軍事攻撃を開始し、数千人のイラン人を殺傷した」と述べている。
(出典: PressTV, “Iran slams ‘systemic double standards’ in nuclear arena”, 前出)

MoU(覚書)に基づく停戦と、米側の条項違反についてのイラン側の主張

[報道:複数] 2026年6月17日、米国とイランは戦闘を停止するための予備的合意に署名した。Al Jazeera によれば「両者が永続的な戦争終結合意を交渉する間、戦闘を停止する」ことを意図したものだった。しかし停戦は部分的にしか維持されず、双方が複数の機会に攻撃を交換した。ABC News によれば、イラン外務省報道官バーガエイーは、米国の「すべての前線」──レバノンを含む──での戦争終結へのコミットメントがMoUの下で拘束力を持つと主張し、米側の遵守を判断すると述べた。トランプ大統領はNATO首脳会議(アンカラ)で停戦合意が「終わった」と宣言した。
(出典: Al Jazeera, “Iran buries Khamenei as renewed fighting tests shaky ceasefire deal”, 2026年7月9日; ABC News, “Trump says Iran gets a ‘week off’”, 2026年7月4日)

2026年7月の国葬の政治的意味

[IRI公式/報道] ハメネイ師の国葬は2026年7月3日〜9日にかけて行われ、テヘラン、コム、イラクのナジャフとカルバラーを経て、マシュハドのイマーム・レザー廟に埋葬された。Wikipedia によれば、テヘランでの葬送行列には数百万人が参加し、イラン政府の推計では国内から1,200〜1,500万人が6日間の追悼に参加した。Democracy Now! は「米国が2月に暗殺した最高指導者ハメネイ師と家族4名の葬儀に数百万のイラン人が参加した」と報じた。NPR は、追悼者たちが「黒い服を着て公然と泣き」「胸を叩くシーア派の葬送の伝統を行い」「アメリカに死を」「イスラエルに死を」と唱和したと報じるとともに、2025年12月以降の反政府デモでIRGCに殺害された人々の遺族からは異なる声──「アヤトラの死においてさえ、彼は我々に苦痛を与え続ける」──も記録している。
(出典: Wikipedia, “State funeral of Ali Khamenei”; Democracy Now!, 2026年7月6日; NPR, 2026年7月4日; Al Jazeera, 2026年7月9日)

[分析] Euronews は「国葬交渉が葬儀後に開始される予定だった」と報じ、葬儀の政治的意味として、モジュタバー・ハメネイ(新最高指導者に指名)が2月28日の攻撃で負傷したとされ、書面での声明のみで公の場に姿を見せていないことを指摘している。
(出典: Euronews, “Iran buries Khamenei as renewed fighting tests shaky ceasefire deal”, 2026年7月10日, https://www.euronews.com/2026/07/10/iran-buries-khamenei-as-renewed-fighting-tests-shaky-ceasefire-deal

「باید برخاست(我々は立ち上がらねばならない)」のスローガンの文脈

[報道] Wikipedia によれば、国葬の公式スローガンは「باید برخاست(Bâyad barxâst / 我々は立ち上がらねばならない)」であり、アイコンは赤い握り拳──米国とイスラエルに対するイランの抵抗を象徴するもの──であった。テヘランの街頭にはアラビア語・英語・ペルシャ語でこのスローガンを掲げたバナーが掲示された。Al Jazeera は「追悼者たちはイラン国旗、故ハメネイ師の写真、革命的スローガンを記した赤いプラカードを振った」と報じ、復讐を要求するチャンティングが行われたと記録している。
(出典: Wikipedia, “State funeral of Ali Khamenei”; Al Jazeera, 2026年7月9日)

ホルムズ海峡の使用を「リスク」ではなく「主権」として語るイラン側の論理

[IRI公式/分析] ホルムズ海峡の問題について、イラン側は一貫して同海峡を「イランの主権的権利」の観点から語っている。ABC News によれば、ヴァンス副大統領は「イラン人がホルムズ海峡を通過する船舶から通行料を徴収するような形では終わらない」と述べた。イラン側は海峡を支配する地理的・法的権利を主張し、攻撃を受けている状況での海峡使用制限を防衛的主権の行使として位置づけている。Tehran Times の論考(Part A-4で引用)にあるように、「我々は4つの異なるレベルで、4つの異なる方法で、4つの異なるルールに従って他者と対峙する」という枠組みの中で、ホルムズ海峡は単なる通商路ではなく、イランの文明的・主権的自己認識の延長として語られる。
(出典: ABC News, 同上; Tehran Times, “It is just a supradiplomatic op-ed”, 前出)

イランの基本的法的立場:「通過通航」ではなく「無害通航」

[IRI公式/法的立場] イランはUNCLOS(国連海洋法条約)に1982年に署名したが、批准していない。署名時にイランは、通過通航制度(transit passage regime)は慣習国際法ではなく、UNCLOS批准国間にのみ適用される「パッケージ・ディール」であると宣言した。イランは自国の1993年国内法に基づき、ホルムズ海峡には「無害通航(innocent passage)」制度が適用され、軍艦の通過には事前の許可・調整が必要であると主張している。無害通航制度では、沿岸国が「無害でない」と判断した通航を拒否する広い裁量を持ち、潜水艦は浮上して国旗を掲揚しなければならず(UNCLOS第20条)、航空機の上空飛行の自由は認められない。
(出典: EJIL: Talk!, “The Legality of Iran’s Closure of the Strait of Hormuz”, 2026年3月, https://www.ejiltalk.org/the-legality-of-irans-closure-of-the-strait-of-hormuz/; International Journal of Research and Innovation in Social Science, “The Strait of Hormuz and the Law of the Sea”, https://rsisinternational.org/journals/ijriss/articles/the-strait-of-hormuz-and-the-law-of-the-sea-the-strait-of-hormuz-between-sovereignty-diplomacy-and-international-maritime-law/; Chatham House, “The Strait of Hormuz, shipping, and law”, 2026年4月, https://www.chathamhouse.org/2026/04/strait-hormuz-shipping-and-law

地理的現実に基づく主権主張

[IRI公式/PressTV] PressTV の分析記事(2026年5月)は、ホルムズ海峡の法的地位について「ホルムズ海峡が『国際水域』であるという西側メディアとシンクタンクによる繰り返しは、イラン・イスラム共和国の世界で最も重要な水路の一つに対する正当な主権を削ぐために設計された認知的・法的闘争の一部である」と主張している。地理的には、ホルムズ海峡の最狭部はイラン領の島々とオマーンのムサンダム半島の間で約21海里であり、イランが12海里、オマーンが12海里の領海を主張すると合計24海里となり、海峡の幅を3海里超過する。「結果は幾何学的に不可避である──イランとオマーンの領海はホルムズ海峡の中央で衝突し重複する」。つまり、公海の回廊は存在しない。
(出典: PressTV, “Explainer: How Iran’s Strait of Hormuz cable sovereignty could reshape global internet governance”, 2026年5月11日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/05/11/768432/explainer-how-iran-strait-hormuz-cable-sovereignty-could-reshape-global-internet-governance

イラン・オマーン間の二国間協議

[IRI公式] 2026年5月13日、イランとオマーンの法的・技術的代表団がオマーン首都マスカットで会合を開き、ホルムズ海峡、船舶の安全な通航のための取り決め、両国の主権的権利について協議した。「協議中、両国は海峡に対する主権的権利と管轄権を強調し、海峡が両国の領海の一部であることを確認した」。イラン側代表団はイラン外務省国際法務局長アッバース・バーゲルプールが率いた。外務大臣アラグチーは2026年7月13日、政治的・技術的レベルでの協議が継続されると発表した。
(出典: PressTV, “Iran, Oman hold talks on Hormuz Strait”, 2026年5月13日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/05/13/768529/Iran,-Oman-hold-talks-on-Hormuz-Strait,-discuss-sovereign-rights-over-strategic-waterway; PressTV, “Iran, Oman to continue political, technical talks on Hormuz Strait management”, 2026年7月13日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/07/13/772164/Iran-Oman-Araghchi-Hormuz

2026年の戦争を契機とした主権行使の本格化

[IRI公式] 2026年2月28日の米国・イスラエルによる攻撃後、イランは報復措置としてホルムズ海峡を「敵対国およびその同盟国」に対して閉鎖した。2026年5月、イランは「ペルシャ湾海峡管理局(PGSA)」を通じて、ホルムズ海峡を通過するすべての船舶に対する新たな通航規制システムを正式に発動した。同システムでは、通過を希望するすべての船舶がPGSAの公式メールアドレス(info@PGSA.ir)から通航規則を記載した指示を受け取る。IRGCは「イランが指定したルートのみが安全とみなされる」と警告した。
(出典: PressTV, “Iran activates new Strait of Hormuz transit system”, 2026年5月5日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/05/05/768114/Iran-activates-new-Strait-of-Hormuz-transit-system,-tightening-security-amid-US-escalation

議会議員・高官の声明

[IRI公式(国会議長)] 議会議長ガーリーバーフは2026年6月30日のテレビインタビューで、ホルムズ海峡をイランの「主要な戦略的資産」と位置づけ、「米国との覚書(MoU)の第5条は、イランとオマーンが国際法と沿岸国の主権的権利に従って海峡の将来の管理と海事サービスを共同決定することを規定している」「イランとオマーンはすでにすべての法的・サービス関連事項について合意に達している」と述べた。また「交渉は闘争の方法である」とし、外交は対立の代替ではなく延長であるとの立場を示した。
(出典: PressTV, “Strait of Hormuz Iran’s greatest source of leverage”, 2026年6月30日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/06/30/771383/Iran-Strait-of-Hormuz-United-States-talks-Qalibaf-Israel-Lebanon-nuclear-military

[IRI公式(議会国家安全保障・外交政策委員会委員長)] エブラーヒーム・アジーズィーは2026年5月、ホルムズ海峡を「永久的な戦略的資産」「完全な経済的・政治的・軍事的レバー」と描写し、「我々は法的権利を全力で追求し、この問題において誰に対しても寛容を示さない」「勇敢で強力なイラン国民の管理と支配の下に永遠にとどまる」と宣言した。
(出典: PressTV, “Strait of Hormuz Iran’s ‘permanent asset’”, 2026年5月19日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/05/19/768898/Iran-Strait-of-Hormuz-full-control-United-States-israel-war

[IRI公式(元副大統領・最高指導者顧問)] モハンマド・モフベルは2026年7月、「ホルムズ海峡の戦略的価値、安全保障上の利益、経済的重要性はイラン国民にとって代替不可能である」と述べ、「将来我々の船が通過する際に敵に身代金を払うことを強いられないよう、我々はそれを防衛する」と宣言した。
(出典: PressTV, “Iran will not retreat from defending ‘irreplaceable’ Strait of Hormuz”, 2026年7月13日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/07/13/772170/Iran-Hormuz-Strait-control-policy-Mokhber

[IRI公式/分析(PressTV戦略分析部)] PressTV 戦略分析部は2026年7月14日の分析記事で、ホルムズ海峡を「単なる地理的チョークポイントではなく、イランの権力と国政術の決定的レバー」と位置づけ、「ホルムズ海峡の重要性は経済や軍事兵站を超える。それはイランにとっての強力な国家的象徴であり、イラン国民の否定しえない権利であり、歴史的にも法的にもペルシャ湾として知られる水路における領土的一体性の表現である」と論じた。
(出典: PressTV, “From Strait of Hormuz to Bab al-Mandeb: Iran’s blueprint for new regional order”, 2026年7月14日, https://www.presstv.ir/Detail/2026/07/14/772258/From-Strait-Hormuz-Bab-al-Mandeb-Iran-blueprint-for-new-regional-order-after-US-breaks-MoU

対照:西側の法的分析

[学術] EJIL: Talk! の分析(2026年3月)は、UNCLOS第45条(2)に基づく「非停止可能な無害通航権」は潜水艦の浮上義務と上空飛行権の欠如を意味するが、通航自体の停止は認められないと指摘している。The Conversation の分析(2026年4月)は、イラン自身が法的根拠として援用する1958年領海・接続水域条約の第16条(4)が「国際航行に使用される海峡における外国船舶の無害通航の停止は認められない」と明確に規定していることを指摘し、イランの通航停止の主張は「イランが法的支持のために依拠する1958年領海条約への違反である」と結論づけている。
(出典: EJIL: Talk!, 同上; The Conversation, “Strait of Hormuz: Why the US and Iran are sailing in very different legal waters”, 2026年4月14日, https://theconversation.com/strait-of-hormuz-why-the-us-and-iran-are-sailing-in-very-different-legal-waters-280557

[学術/イラン側法律家] イラン人国際法学者レザー・ナスリーは2026年4月、イランの法的立場を多層的に擁護した。(1) UNCLOSを米国もイランも批准していないため、より古い条約体制への依拠が「適切であるのみならず必要」、(2) 無害通航制度は沿岸国の安全保障保護を認めている、(3) 航行可能な水路はイランとオマーンの重複する領海内にあり公海の回廊ではない、(4) UNCLOS自体においても非停止可能な無害通航は法的に認められた代替制度、(5) 武力攻撃を受けた後のイランは国連憲章第51条に基づく固有の自衛権を援用する権利を持つ──と主張した。
(出典: Reza Nasri, X post, 2026年4月6日, https://x.com/RezaNasri1/status/2041110227819335992


2026-07-17追記: PressTV(イランの英語メディア)のSSL証明書剥奪について

2026年6月23日以降、PressTV(presstv.ir)のSSL証明書が、イタリアの認証局 Actalis(Aruba Group傘下)により繰り返し失効処理されている。CRL上の失効理由は “Privilege Withdrawn” であり、6月23日〜7月17日の間に少なくとも78件の証明書が剥奪されている。証明書の再取得と剥奪が波状に繰り返されており、現在も進行中である。

PressTV はアメリカの対イラン制裁(EO13846)およびEUの制裁対象に指定されており、過去にも衛星放送からの排除が段階的に行われてきた。今回の証明書剥奪がイタリア政府やアメリカ政府からの圧力によるものか、Actalis が制裁コンプライアンス上の判断として自発的に行ったものかは、現時点で公式な声明や報道がなく不明である。

ソース:


証明書は失効しているが、以下の方法で記事の閲覧ができることは確認済みである。

# テキストブラウザで閲覧
w3m https://www.presstv.ir/(記事のURL)

# HTMLをファイルに保存して通常ブラウザで開く
curl -k -o page.html https://www.presstv.ir/(記事のURL)
xdg-open page.html

参考文献一覧(URL索引)

本文中で参照された全URL(重複除去済み)。
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