
因果関係と相関関係、責任の所在──それってなんだろう?
「原因」は本当にあるのか
「Aが原因でBが起きた」──こういう言い方を、私たちは毎日のように使っています。太陽が昇るのは地球が自転してるからだし、風邪をひいたのは昨日薄着で体が冷えたからだし、不景気なのは政策が悪いからだ、と。
因果関係って、世界を理解するうえで一番基本的な枠組みに見えますよね。でも「因果関係って厳密にはなんなの?」と定義しようとすると、この概念は驚くほど足場を失います。
責任の所在──用途に応じて構成されるフィクション
まず、私たちの日常にある「因果」から始めてみましょう。
「あなたがあのとき○○したから、こうなった」──人間関係のなかでこの構文はよく出てきます。構造的にはpost hoc(後付け因果)なんですが、関係性のなかではそれが「真実」として機能してしまう。怒りの矛先として、悲しみの説明として、謝罪の要求先として──責任の帰属は感情と物語に依存していて、反証は原理的に不可能です。相手の感情的確信に対して「それは交絡変数ですよ」とは言えないですよね。
法の世界に目を移すと、因果はまた別の顔を見せます。民法の不法行為(709条)が求める「相当因果関係」は、その行為からその結果が生じるのが通常であるといえるかどうか──社会通念上の相当性で判断されます。これは統計的検定ではなく、規範的な判断です。刑法では、実行行為と結果のあいだに条件関係(あれなければこれなし)があることを事実的基礎として、さらに法的見地からその因果関係を限定するという二段階の判断枠組みが採られています。従来は「相当因果関係説」が通説でしたが、近年の最高裁判例は「危険の現実化」という基準へ移行しつつあります。刑を課す対象を明確にする──秩序維持のための装置として、因果と責任が構成されているわけです。
行政運用になると、もう少し露骨になります。しばしば「政策的に因果があることにしたい」あるいは「ないことにしたい」が先にあって、エビデンスは事後的に動員される。労災認定における「業務との相当因果関係」の判定に行政裁量が大きく入ることは、よく知られています。責任の帰属先が先に決まって、因果はそこに向かって構成される。
同じひとつの出来事に対して、刑事では個人に帰責され、民事では法人に帰責され、政治的には「社会構造の問題」に拡散され、日常では感情的に一番近い相手に帰責される。因果の終点が、用途によって動くんです。
責任の所在は「発見」されるものではなく、「構成」されるもの。──では、その土台にある「因果」そのものは、どれほど確かなんでしょうか。
複雑系──因果の帰属が構造的に困難な世界
社会で「原因」が名指されるとき、その対象はたいてい複雑系の中にあります。
個々のミクロな相互作用は記述できても、それらが集まったときに現れるマクロなパターン──創発(emergence)──は、ミクロな記述から因果的に「導出」しにくい。鳥の群れのフォーメーションは個体の単純なルールから生まれますが、どの個体もそのフォーメーションを「引き起こして」はいない。
経済、世論、文化的変動、パンデミックの感染動態──私たちが社会的に重要だと感じる現象の大半は、こうした複雑系の創発的挙動です。個々の行為者の動きは記述できても、マクロな結果に対して「これが原因だ」と特定の要因に帰属することは、還元主義的なアプローチでは極めて困難な領域にいる。
にもかかわらず、政策立案者は「原因はこれ」と名指しし、メディアは「犯人」を特定し、有権者は「誰のせいか」を問います。前章で見た「責任の構成」は、こうした帰属の困難さの上で行われているんですね。
科学における因果──精密な相関の記述
では、もっと厳密な領域ではどうでしょう。科学は因果の証明に最も厳格な分野だと言われています。
ランダム化比較試験(RCT)は、介入群と対照群を比較することで因果効果を推定します。統計的因果推論は、反事実──「もしXがなかったら」──との比較として因果を定義する。
ところが、ここに根本的な問題があります。反事実は定義上、観測できません。RCTが推定しているのは集団レベルの期待値の差であって、「AがBを引き起こした」という個別の因果そのものではない。これはHolland(1986)がRubinの枠組みを整理するなかで「因果推論の根本問題(fundamental problem of causal inference)」と明確に命名した概念です。ある個体について、処置を受けた場合と受けなかった場合の両方の結果を同時に観測することは不可能である──この原理的制約を指しています。
つまり科学が実際にやっていることは、因果の証明ではなく、「因果主張を棄却しにくい状況を設計する」こと。因果は、まだ壊れていない仮説として暫定的に保持されているだけなんです。
物理法則は「なぜ」に答えない
もう少し掘ってみましょう。
正の電場の中に負電荷を持つ粒子を置くと引き寄せられる。これ、因果関係のように見えますよね。でも物理学が実際に述べているのは、「電場の中に負電荷を置くとこのような運動が記述される」ということだけです。クーロンの法則もマクスウェル方程式も、関係の記述であって、「なぜ引き合うのか」という生成のメカニズムには答えていない。
量子電磁力学(QED)は「仮想光子の交換」という描像を提供しますが、ファインマンが繰り返し強調したように、物理学における「なぜ」の問いは常により深い記述の層への先送りです。1983年のBBCインタビュー Fun to Imagine で磁石の仕組みを問われたとき、彼はこう答えています──「磁力をあなたがもっとよく知っている何か別のもので説明することは、私にはできない。なぜなら、私はそれをあなたがより馴染みのある何かの観点から理解しているわけではないからだ」。物理的説明は常に「別の何かに置き換える」ことであって、最終的な「なぜ」には到達しないんです。
力→場→粒子交換→ゲージ対称性──物理学は「なぜ」を一段深い記述に先送りし続けますが、最終的な「なぜ」には到達しません。物理法則は、極めて精密に記述された規則性──ヒュームの言葉を借りれば「恒常的連接」の究極形態──なんです。その精度が高すぎるから、因果と区別がつかなくなっているだけで。
因果は概念として成立するか
ここまでの議論を積み上げると、ある結論に辿り着きます。
日常では感情と物語で因果が構成され、司法と行政では制度的目的のために因果が確定され、複雑系では因果の帰属が構造的に困難であり、科学では因果は暫定的な推定に過ぎず、物理法則ですら規則性の精密記述でしかない。
そして因果認知そのものが、人間の認知装置の産物です──カントの議論に従えば、因果は「経験に先立つ悟性のカテゴリー」であり、私たちが世界を経験可能にするための認知の形式です。ただし、カントは因果が単なる主観的投影だとは言っていません。因果は現象世界(私たちが経験する世界)においては客観的に妥当するが、物自体(世界そのもの)には適用できない、というのがカントの立場です。
「AがBを引き起こす」の「引き起こす」を、因果以外の言葉で定義しようとすると、必ず別の概念に分解されます。恒常的連接(ヒューム)、反事実的依存(ルイス)、法則的記述(物理学)。どれも因果そのものではなく、因果の代用品です。
もっとも、ここにはPearlの構造的因果モデル(SCM)という重要な反論があります。Pearlは因果に形式的な意味論を与えようとした──do演算子(介入)による反事実の定式化は、「因果には指示対象がない」という主張に対する数学的な応答です。この体系のもとでは、因果は操作的に定義可能な概念であり、空虚なラベルではありません。
それでも、Pearlの体系においてさえ、個体レベルの因果効果は観測から原理的に確定できないという制約は残ります。因果は、操作的には定義可能だが、観測からは確定不可能──この二重性を踏まえたうえで言えば、因果とは、それ自体としては空っぽの概念ではないにせよ、実際の運用において中身を担っているのは相関、規則性、予測力、介入効果、説明的有用性といった別の概念群です。因果は、それらを束ねる枠組みとして機能している。
18世紀にヒュームが「我々が観察できるのは恒常的連接だけであり、必然的結合は知覚できない」と見抜いた上で、「しかし我々は習慣として因果を使い続ける」と述べたのは、知的な諦めではなく、かなり正直な認識だったのだと思います。
人間の脳は因果を明確にしないと気持ちが悪い
ここまで読んで、どこか落ち着かない気持ちになっていませんか。
もしそうなら、それ自体がこの記事の論点を裏付けています。
人間の脳は、因果が不明な状態に耐えられないようにできています。心理学ではこの傾向を「不確実性への不耐性(intolerance of uncertainty)」と呼び、また曖昧な状況でとにかく確定的な答えを得ようとする動機づけを「認知的完結欲求(need for cognitive closure)」として研究してきました。原因がわからない出来事に直面すると、不安や不快が生じて、何でもいいから「原因」を割り当てて心理的な安定を得ようとする──因果の帰属は、こうした不確実性を解消するもっとも手近な手段のひとつです。乳児研究が示すように、生後6ヶ月の段階から因果知覚の原型が観察されます。因果で世界を処理することは、学習で身につけた技術ではなく、人間の認知に組み込まれたデフォルトの動作モードなんです。
だから「因果は概念として成立しない」という知的結論を受け入れたとしても、脳はそれに従いません。この記事を読み終えた後も、明日の朝コーヒーをこぼしたら「寝不足のせいだ」と思うし、仕事がうまくいかなければ「あの判断が原因だ」と感じる。知的理解と認知的動作は、別のレイヤーで動いている。
これは個人の認知だけの話でもないんです。社会もまた、因果の不在に耐えられない。大きな事故が起きれば「誰の責任か」が即座に問われ、経済が停滞すれば「何が原因か」の説明が求められます。原因不明・責任不在という状態は、社会的にも心理的にも許容されない。だから因果は、概念として成立しなくても、社会的必需品として常に生産され続けるわけです。
この記事が提示してきたのは、「因果を使うな」ということではありません。使わないことは不可能です。そうではなく、因果を使うたびに──「原因はこれだ」「責任はあいつにある」と感じるたびに──自分がいま、認知的な快適さを得るためにひとつの枠組みを選択しているのだ、という自覚を持てるかどうか。
少なくとも、「原因はこれだ」「責任はあいつにある」と言われたときに、一拍置いて「それ、誰のために、何の目的で構成された因果だろう?」と考える余地が生まれます。
その一拍が、たぶん大事です。
参考文献
本記事の議論は、以下の文献に依拠している。
一次文献
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David Hume, A Treatise of Human Nature (1739–40) / An Enquiry Concerning Human Understanding (1748)
因果の哲学的問題の原点。「我々が観察できるのは恒常的連接(constant conjunction)だけであり、必然的結合(necessary connection)は知覚できない」として、因果を心の側の習慣的投影と論じた。全文はパブリックドメインとして公開されている。 -
Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判, 1781/1787)
ヒュームへの応答として、因果を「経験に先立つ悟性のカテゴリー」と位置づけた。因果は物自体には適用できないが、現象世界においては客観的に妥当するとする議論。 -
Donald B. Rubin, “Estimating Causal Effects of Treatments in Randomized and Nonrandomized Studies,” Journal of Educational Psychology, 66(5), 688–701 (1974)
潜在結果(potential outcomes)による因果効果の定義を形式化した論文。個体レベルの因果効果は原理的に観測不可能であるという枠組みを提示した。 -
Paul W. Holland, “Statistics and Causal Inference,” Journal of the American Statistical Association, 81(396), 945–960 (1986)
Rubinの枠組みを整理し、「因果推論の根本問題(fundamental problem of causal inference)」を明確に命名・定式化した論文。 -
Albert Michotte, La perception de la causalité (1946) / 英訳 The Perception of Causality (1963)
視覚的な事象から人間が因果を知覚する仕組みを実験的に示した古典。因果認知が人間に生得的に組み込まれている可能性を提起した。 -
Alan M. Leslie & Stephanie Keeble, “Do Six-Month-Old Infants Perceive Causality?” Cognition, 25(3), 265–288 (1987)
生後6ヶ月の乳児がMichotte的なlaunching eventにおいて因果性を知覚することを実験的に示した研究。 -
Donna M. Webster & Arie W. Kruglanski, “Individual Differences in Need for Cognitive Closure,” Journal of Personality and Social Psychology, 67(6), 1049–1062 (1994)
認知的完結欲求(need for cognitive closure)の個人差尺度を導入した論文。曖昧さへの不快感、予測可能性への選好、決断性、閉鎖性の5側面で構成される。
二次文献(入手しやすい解説書)
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Judea Pearl & Dana Mackenzie『因果推論の科学──「なぜ?」の問いにどう答えるか』(文藝春秋, 2022)
原著:The Book of Why: The New Science of Cause and Effect (Basic Books, 2018)。Pearl本人が一般読者向けに書いた本。「因果のはしご」(観察→介入→反事実)を軸に、相関と因果の違い、統計だけでは「なぜ」に答えられない理由を歴史的エピソードを交えて解説している。本記事の議論への最も直接的な入口。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784163915968 -
Judea Pearl 著, 黒木学 訳『統計的因果推論──モデル・推論・推測』(共立出版, 2009)
原著:Causality: Models, Reasoning, and Inference (Cambridge UP, 2000; 2nd ed. 2009)。構造的因果モデル(SCM)とdo-calculusの体系的定式化。因果を「概念としてどう定義するか」に正面から取り組んだ著作。2001年ラカトシュ賞受賞。 -
Judea Pearl, Madelyn Glymour, Nicholas P. Jewell 著, 落海浩 訳『入門 統計的因果推論』(朝倉書店, 2019)
原著:Causal Inference in Statistics: A Primer (Wiley, 2016)。Pearl体系のコンパクトな入門書。DAG、バックドア基準、do-calculus、反事実を図と具体例で解説しており、「相関≠因果」の区別を数学的にどう定式化するかの最短ルート。
https://www.asakura.co.jp/detail.php?book_code=12241 -
G.W. Imbens & D.B. Rubin 著, 星野崇宏・繁桝算男 監訳『インベンス・ルービン 統計的因果推論』上下(朝倉書店, 2023)
原著:Causal Inference for Statistics, Social, and Biomedical Sciences (Cambridge UP, 2015)。Rubin因果モデル(潜在結果変数フレームワーク)の体系的教科書。「因果推論の根本問題」をどう扱うかを、実験・観察研究の両面から解説している。 -
M.A. Hernán & J.M. Robins『Causal Inference: What If』(Chapman & Hall/CRC, 2020)
ハーバード大学の疫学の教科書。因果推論を「もし〜だったら(What If)」という反事実の問いとして一貫して扱っている。著者サイトで全文PDFが無料公開されており、本記事の参考文献のなかで最もアクセスしやすい。
https://miguelhernan.org/whatifbook
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