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ヨーダのコラ画像から始まった、「似てる」という概念の崩壊

──著作権法は「認知」を法的要件にしてしまった

ことの発端は、typo(打ち間違い)だった。

yogaを検索しようとして、yodaと打った。それだけのことだ。

普通はそこで「あ、間違えた」と思って終わる。でも2時間後、私の手元には「湖畔で瞑想するヨーダ(ボヘミアン系インフルエンサー風)」のコラ画像が完成していた。Photoshopなんて使っていない。Adobe税は払わない主義なので。

で、これをどこかに載せようとしたときに気づいた。

これ、著作権侵害では?

そこから転がった議論が、最終的に「著作権法は創作と模倣の境界を定義していない」という、わりと根本的な問題に着地した。順番に説明する。

「似てる」って、誰が決めるの?

著作権の侵害を問うとき、法的に必要な要件は2つだ。

依拠性(そのコンテンツを見て、参照して作ったか)と、類似性(似ているか)。

ヨーダのコラについては、依拠性は議論の余地がない。そりゃヨーダを見て作った。問題は「類似性」のほうだ。

裁判所が使う基準は「本質的特徴の直接感得」という。要するに、「普通の人が見て、元の作品の創作的な特徴をそこに感じ取れるか」だ。

一見もっともらしい。でもよく考えると、これはかなり奇妙なことを言っている。

「普通の人」って、誰だ?

スター・ウォーズを一度も観たことのない人にとって、ヨーダは「緑色の変な生き物」でしかない。その人が裁判官なら、私のコラ画像からヨーダの「本質的特徴」を感得できるだろうか? おそらくできない。となると、侵害不成立になる。

一方、ディズニーの法務部の人間が見れば、0.3秒でヨーダだとわかる。侵害成立だ。

同じ画像を見て、判定者によって結果が変わる。

これを「科学的に適切な判定基準」と呼ぶのは、かなり難しい。

認知の個体差、という厄介な話

ここで少し視点を変えてみたい。

「似ているかどうか」を判断するとき、人間の脳は何をしているのか。

それは知覚の話ではない。目に入ってきた光の情報を処理するだけなら、人によってそんなに差は出ない。問題はその上の層、認知のレイヤーで起きていることだ。パターン認識、カテゴリ化、過去の記憶との照合、文化的な文脈の読み込み──類似性の判断はこうした処理の総体として出てくる。

そして認知の個体差は、知覚の個体差とは桁が違う。

具体的な例を出そう。認知心理学には「他人種効果(cross-race effect)」という、実証された現象がある。異なる人種の顔を識別するとき、自分が見慣れていない人種の顔は区別しにくくなる、というものだ。これは差別意識とは無関係で、単純に「その顔のカテゴリを処理するための認知スキーマが育っていない」ために起きる。

つまり、日本の裁判官がアフリカの民族美術の類似性を判断するとき、その判断精度は自分が育ったビジュアル文化に強く引きずられる。これは構造的に避けようがない。

冗談のつもりで「アメリカ人が『日本人は全員同じ顔してる』と言ったら、1.2億人全員が相互著作権侵害をしている」という話をしていたのだが、笑えないことに、これは著作権法の論理の穴を正確に突いている。観察者が変われば、侵害の有無が変わる。測定として成立していない。

ジェリーとミッキーは同じネズミか

これを受けて、いくつか「著作権侵害」の例を並べてみる。

ジェリー(トムとジェリー、ワーナー)とミッキーマウス(ディズニー)。
「二足歩行」「丸い耳」「笑っている」「陽気な擬人化ネズミ」というカテゴリで処理すると、完全に同一だ。ネズミの品種の区別がつかない判定者を連れてくれば、これは侵害になる。

モーフィアス(マトリックス、1999年)とメイス・ウィンドゥ(スター・ウォーズ、2002年)。「スキンヘッド」「威厳のある表情」「ローブ系の衣装」「師匠ポジション」。時系列的にも、マトリックスが先だ。依拠性の条件も揃う。

ジョジョの石仮面(1987年〜)と映画『マスク』(1994年)。「金髪の男」「不思議な仮面を手に持つ」「仮面で超人化する」。こちらもジョジョが先だ。

ちなみに、こうした指摘に対する定番の反論がある。「インスパイアされたオリジナル作品です」というやつだ。

一見スマートな防衛線に見えるが、法的に翻訳するとこうなる。「見ました(依拠性はあります)。でも表現は違います(類似性はないです)」。つまり依拠性を自白した上で、類似性の判定を裁判官の認知に賭けている。業界では「パクリ」「オマージュ」「リスペクト」「インスパイア」を使い分けているが、法的にはこの区別に意味はない。依拠して類似していれば侵害だ。

「インスパイアされたオリジナル」とは、要するに「依拠性は認めますが、類似性については判定者の認知解像度に賭けます」というギャンブル宣言にすぎない。

どれも笑い話として出してきた例だが、認知の解像度パラメータを下げれば下げるほど、世の中の創作物はどこかの何かの著作権侵害になる。これは冗談ではなく、現行の著作権法が「似ている」の閾値を定義していないことの必然的な帰結だ。

著作権は誰のためにあるか

著作権法第1条には「文化の発展に寄与する」と書いてある。創作者の権利を守ることで、もっと多くの人が創作に挑戦できるようにする。それが立法の趣旨だ。

だが実態はどうか。

ディズニーはアメリカ議会にロビイングを繰り返し、著作権保護期間を何度も延長させてきた。その結果生まれた通称「ミッキーマウス保護法」は、本来パブリックドメインに入るはずだったコンテンツを、ディズニーの資産として囲い込み続けた。2024年にSteamboat Willie版のネズミがようやくパブリックドメイン入りしたが、ディズニーは「現行デザインは別物です」という防衛線をしっかり張っている。

ここで起きていることは、「著作権の保護」から「著作権の資産運用」への転換だ。

そして認知依存の類似性判定という制度的な穴は、この文脈ではさらに危うい意味を持つ。再現性のない判定基準は、最終的に「説得力のあるナラティブを出した側が勝つ」という構造を生む。それはつまり、訴訟リソースが豊富な側、優秀な弁護士を大量に投入できる側が、認知形成において有利になるということだ。

「判定者の買収」という露骨な話ではない。でも、構造として同型のことが、すでに起きている。

本来守られるべき個人のクリエイターは、訴訟コストが払えないから権利があっても行使できない。一方で巨大企業は「訴えるぞ」という威嚇だけで個人を黙らせられる。法の趣旨と運用が逆転している。

AIと人間の脳のあいだで「模倣」が消える

ここまで来ると、もう一つの問題が見えてくる。

現在、AIの著作権をめぐる議論は世界中で起きている。論点はシンプルで、「学習データへの依拠性」と「出力の類似性」だ。つまり、著作権のある作品で学習して、それに似た出力を出したなら侵害ではないか、という話。

だが、少し立ち止まって考えたい。

人間の脳はどう動いているか。見たもの、読んだもの、経験したこと、すべてがニューラルネットワークの重みとして蓄積される。そしてその重み付けされたネットワークから、創作物が出力される。

入力を受け取り、重みを更新し、重み付けされたネットワークから出力する──情報処理の抽象構造として、これは同型だ。

意図がある、身体がある、経験の質が違う。そうした反論は当然出る。だが、それは「何が違うか」の説明であって、「なぜ一方だけが創作と呼ばれるか」の根拠にはなっていない。

著作権法が前提にしている「人間の脳は創作する、機械はコピーする」という二分法は、神経科学的には自明でも何でもない。

AI著作権の問題が今これほど紛糾しているのは、技術が新しいからではないかもしれない。もともとあった「創作と模倣の境界が定義されていない」という空白が、AIという新しい主体の登場によってようやく可視化されただけ、という見方もできる。

これは著作権法の技術的アップデートの話ではなく、「創作とは何か」という問いへの答えを、私たちがまだ持っていないという話だ。

ヨガヨーダはどこへ行く

typoから生まれた。
オープンソースのツールで作られた。
誰も傷つけていないし、誰も損していない。
みんなを少し笑わせた。

著作権法の論理では、これは侵害だ。
判定者の認知次第で。
リソースのある側の訴訟圧力次第で。

「文化の発展に寄与する」ために生まれた法律が、ヨガヨーダを違法にする。

900歳のヨーダがパブリックドメインに入る2080年ごろまで待つのか、ヨーダではないものにすれば良いのか。

答えはジェダイのグランド・マスターにもわからない。