
うつ「病」というラベルはどこから来たのか——診断名と制度をめぐる130年史
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🔖 はじめに
ある日、診察室で「うつ病ですね」と言われる。
その瞬間、いくつかのことが同時に起きる。「ああ、やっぱり病気だったんだ」という安堵。「自分は"うつ病"なのか」という重み。そして、その名前をどう扱えばいいのか——会社に出す診断書にはどう書かれるのか、障害年金は使えるのか、友人に話していいのか——が一気に押し寄せてくる。
名前がつくと楽になることがある。「気のせいじゃなかった」「怠けてるんじゃなかった」と思える。休職の理由を説明できる。制度にアクセスするための鍵が手に入る。
でも同時に、名前が枷になることもある。「うつ病の人」として見られる不安。「もう治らないんじゃないか」という感覚。自分で自分に「病人」のラベルを貼り、できることまで「できないはず」と思い始めてしまう——セルフスティグマと呼ばれる現象だ。
この記事は、「うつ病」という名前そのものを掘る記事だ。なぜ「病」の字がついているのか。その名前はどこから来て、何に使われ、なぜ変わらないのか。
先に結論を言ってしまうと——科学的理由だけでは説明がつかない。制度が名前を固定している。そして、その名前は当事者にとって薬にも毒にもなる。
🏥 「病気」とは何か——区別の不安定さ
まず言葉の話をしよう。
英語では disease(病気)、disorder(障害)、syndrome(症候群)を使い分ける。ざっくり言えば:
- disease:原因がわかっていて、特有の病理過程と症状がある。結核とか糖尿病とか。
- disorder:正常な機能が乱れている状態。原因がわかっていなくても使える。
- syndrome:「こういう症状がセットで出やすい」というパターンの記述。原因は問わない。
うつ病の英語名は Major Depressive Disorder(大うつ病性障害)。disease ではなく disorder。DSM は一度も「disease」とは呼んでいない。Nasrallah(2009)は、精神疾患の現状を踏まえると disorder や syndrome として扱うのが妥当だと論じ、「mood, anxiety, psychosis, addiction の4大症候群に集約すべきでは」と提言した [2:mdedge.com]。
日本語で「病」の字が充てられているのは翻訳慣習であり、原語の意図を超えている——これがこの記事の出発点。
ただし、ここで慎重になる必要がある。
disease/disorder の区別自体が、実はそこまで盤石ではない。Scadding(1967)は disease の定義そのものが歴史的に変遷しており、「特定の病因の同定」を必須とするのは数ある定義のひとつにすぎないと指摘している [3:doi.org]。Kendell(1975)も disease と non-disease の境界は連続的で、明確な線引きは困難だとした [4:openlibrary.org]。
さらに、DSM-5 自身がイントロダクションで「mental と physical の区別は時代遅れの二元論の遺物」と書いている [5:psychiatry.org]。つまり disorder という語の選択は、「これは disease ではありません」という存在論的な宣言ではなく、知識の不確実性に対する慎重さの表現として理解したほうが正確だ。
「disorder だから disease ではない」と言い切ると、DSM 自体の意図を超えた解釈になりうる。ここは射程を限定しておく:少なくとも、特定の病因が同定された疾患であるかのような印象を「病」の字が与えていることが問題の核心であり、disease/disorder の形而上学的区別そのものではない。
📜 うつ病が「定義された」経緯
🌍 前史——メランコリアから depression へ
古代ギリシャのヒポクラテスは、恐怖や落胆が長期間続く状態をメランコリア(黒胆汁)と呼んだ。この記述は、現代の DSM 診断基準と9項目中6項目が重なるとされる [6:nature.com]。2000年以上前の記述が現代の操作的基準とこれだけ重なるのは、それだけ「抑うつ」という現象が人間に普遍的だということでもある。
19世紀に入ると、メランコリアは「知的障害モデル」から「気分障害モデル」へ転換する。Adolf Meyer が「メランコリア」に代えて「depression(抑うつ)」の語を使うべきだと主張し、これがのちの分類体系の源流になった [7:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
🇺🇳 WHO(ICD)の系譜
WHO の国際疾病分類(ICD)において精神疾患が独立した章になったのは ICD-6(1948年)からである。
ICD-9(1975年) では「メランコリア」「反応性うつ病」といった用語が使われていた。ICD-10(1993年) で大きな転換が起きる。内因性/反応性の二分法が放棄され、「うつ病エピソード(depressive episode)」として統一的に記述されるようになった。背景にあったのは、1980年代の研究がうつ病エピソードは軽症から重症までの連続体上にあり、遺伝・ホルモン・身体合併症など多因子的な起源をもつことを示したことだ [8:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
ICD-11(2019年 WHO 総会承認、2022年最終版公開) では症状を感情・神経植物・認知の3クラスターに整理し、診断閾値を ICD-10 の 4/10 から5/10 に引き上げ、「絶望感(hopelessness)」を新たに追加した。DSM-5 が撤廃した死別除外を維持したのも特徴的である。155カ国、約15,000人の臨床家が参加する Global Clinical Practice Network の知見が反映されている [9:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
🇺🇸 アメリカ精神医学会(DSM)の系譜
- DSM-I(1952年):「depressive reaction(うつ反応)」。精神分析的・マイヤー的な「反応型」の枠組み。
- DSM-II(1968年):「depressive neurosis(うつ病神経症)」。内的葛藤への過剰反応として定義。
- DSM-III(1980年):操作的定義への転換。1970年代半ばに「Major Depressive Disorder」の語が導入され、精神分析的枠組みが放棄された。新クレペリン主義に基づく症状ベースの操作的診断が採用される [10:sciencedirect.com]。
- DSM-5(2013年):気分障害が双極性障害と抑うつ障害群に分離。死別除外の撤廃。混合特徴や不安性の苦痛など横断的 specifier が導入された [5:psychiatry.org]。
この DSM-III の「操作的転換」をどう評価するかは重要なポイントだ。
「病因不明のまま分類している」と言えば弱みに聞こえるが、これは Feighner ら(1972)が明確な意図をもって設計した方法論的選択である [11:doi.org]。当時の精神医学は、同じ患者に対して臨床家ごとに異なる診断がつくという深刻な信頼性(inter-rater reliability)の問題を抱えていた。Feighner 基準と、それを発展させた Spitzer ら(1978)の Research Diagnostic Criteria(RDC)は、「まず臨床家が同じ患者に同じ診断をつけられるようにする」ことを目的としていた [12:doi.org]。
病因論を放棄したのは無知のためではなく、信頼性なき妥当性は検証不能だという方法論的判断による。「わかっていないことを前提にしても前に進める」ための仕組みが操作的定義であり、それが現在まで継承されている。
🇯🇵 厚生労働省の位置づけ
日本における診断は、実務上 DSM-5 と ICD-10(現在 ICD-11 への移行過程)の双方が参照されている。
厚生労働省「みんなのメンタルヘルス総合サイト」はうつ病を「気分がひどく落ち込んだり何事にも興味を持てなくなったりして強い苦痛を感じ、日常の生活に支障が現れるまでになった状態」とし、「原因についてはまだはっきりとわかっていない」と記述している [13:mhlw.go.jp]。日本うつ病学会の治療ガイドラインは DSM-5 を採用し [14:secretariat.ne.jp]、障害年金等の行政手続きでは ICD-10 コード(F32.x, F33.x)が使用されている [15:mhlw.go.jp]。
🔬 除外診断を要する——ただし「うつ病だけ」ではない
うつ病の診断で特徴的なのは、確定診断のための生物学的検査が存在しないことだ。
DSM-5 の診断基準 C 項は明示的にこう述べている:「症状は物質の生理学的作用や他の身体疾患によるものではない」[5:psychiatry.org]。つまり、うつ症状を呈する他のすべての原因を除外してはじめてうつ病と診断できる。
除外すべき疾患のリストは長い。甲状腺機能低下症・亢進症、クッシング症候群、アジソン病。アルツハイマー病、パーキンソン病、多発性硬化症。ライム病、HIV脳症、SLE。アルコール、ステロイド、降圧薬の副作用。アメリカ臨床内分泌学会なども、うつ病患者すべてにおいて甲状腺機能低下症の診断を考慮すべきとし、気分障害患者の1–4%に顕性甲状腺機能低下症、4–40%に潜在性甲状腺機能低下症が認められると報告している [16:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
さらに DSM-5 基準 D は他の精神疾患との鑑別を、基準 E は躁病・軽躁病エピソードの除外を求めている [17:nagoya-hidamarikokoro.jp]。うつ病の診断は構造的に「◯◯ではない、△△でもない、残ったものがうつ病」という除外プロセスを経る。
糖尿病の HbA1c や感染症の培養検査のような「陽性検査による確定」とは根本的に異なる——これは事実だ。しかし、これをうつ病の「特殊性」と呼ぶのは、やや過大評価になる。
医学全般を見渡せば、同様の構造を持つ疾患は珍しくない。片頭痛は ICHD-3 基準に基づき、二次性頭痛(脳腫瘍、くも膜下出血等)を除外した上で初めて診断される。生物学的確定検査はない [18:doi.org]。過敏性腸症候群(IBS) も Rome IV 基準に基づく症状ベースの診断で、器質的疾患の除外が前提。バイオマーカーは未確立だ [19:doi.org]。線維筋痛症も 2010 ACR 基準は完全に症状ベースの操作的定義である [20:doi.org]。
つまり、除外診断+症状ベースの操作的定義は、うつ病に固有の欠陥ではなく、病因が完全には解明されていない多くの疾患に共通する診断構造である。うつ病が特殊なのではなく、「原因がわかっていて検査で確定できる病気」のほうが、医学全体のなかではむしろ恵まれた一群なのかもしれない。
🌈 「227通りのうつ病」と異質性の問題——ただし多項式定義の宿命
📊 数字が示す異質性
DSM-5 の MDD 診断基準は、9症状のうち5つ以上(うち1つは抑うつ気分または興味・喜びの喪失)を求める多項式(polythetic)定義である。この構造から、理論上227通りの異なる症状組み合わせがすべて「同じ MDD」として診断される [1:sciencedirect.com]。
Zimmerman ら(2015)は1,500人以上の MDD 患者で実際に170通りの異なる症状パターンを確認した。最多の組み合わせ(9症状すべて該当)でも全体の10.1%にすぎない [1:sciencedirect.com]。
Fried & Nesse(2015)は STAR*D 研究の3,703人で、各症状の増減方向(過眠/不眠、過食/食欲減退等)を区別すると1,030通りの固有プロファイルを同定し、うち48.6%はたった1人にしか該当しなかったと報告している [21:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
印象的な数字だ。「同じ病気と診断された2人が共通する症状をひとつも持たない」という事態は、直感的に「それ本当に同じ病気なの?」と思わせる。
⚖️ ただし、多項式定義の宿命でもある
ここで一歩引いて考える必要がある。
Monroe & Anderson(2015)は、この異質性の議論に対して重要な指摘をしている:症状数の組み合わせ論はあらゆる多項式定義に当てはまる問題であり、うつ病に固有の欠陥ではない [22:doi.org]。DSM の他の多くの障害も同じ構造を持っている。
さらに、本稿で引用した Fried 自身(2017)がネットワーク理論の立場から、「異質性は単一疾患の否定ではなく、症状間の因果ネットワーク構造として理解すべき」と論じている [23:doi.org]。Fried の議論は「うつ病はバラバラだ」という結論ではなく、「症状間の動的関係を理解する新しい方法論が必要だ」という提案だ。
考えてみれば、高血圧も本態性(原因不明、全体の90–95%)と二次性に分かれ、治療反応性にも大きなばらつきがある [24:doi.org]。それでも「高血圧は1つの病気ではない」とはあまり言わない。
つまり異質性は、MDD の分類体系に問題があることの証拠にはなるかもしれないが、「うつ病という概念そのものが無効だ」という結論には直結しない。問題は異質性の存在そのものよりも、その異質性のなかに意味のある下位構造(サブタイプ)があるのか、それを見つける方法論が追いついているのか、という点にある。
🧬 次元的アプローチ——RDoC と ICD-11
NIMH が2010年に立ち上げた RDoC(Research Domain Criteria)は、DSM のカテゴリカルな分類を補完する枠組みとして、精神疾患を行動―脳関係の次元的構成要素に分解して理解しようとする試みだ [25:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
ICD-11 自体も次元的要素を取り入れつつある。重症度の次元的評価、横断的 specifier(精神病性特徴、メランコリック特徴等)の導入がその表れだ [9:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。ただし ICD-11 の臨床記述・診断ガイドラインは、DSM のような厳密な閾値よりも臨床的判断の柔軟な行使を重視する設計になっている [26:istss.org]。
🔒 診断名と制度の結びつき——変えたくても変えられない構造
ここまで見てきたように、「うつ病」という診断カテゴリには科学的な不確実性が多分にある。ならば、より実態に即した名前や分類に更新すればいいじゃないか——理屈ではそうなる。
でも現実には、診断名を変えることは制度的にきわめて困難だ。
📋 ICD コードが制度のゲートキーパーになっている
日本の障害年金制度では、精神の障害用診断書にICD-10コードの記入が必須とされている [15:mhlw.go.jp]。そしてこのコードが、審査における事実上のゲートキーパーとして機能している。
F32(うつ病エピソード)・F33(反復性うつ病性障害) は障害年金の認定対象。F40–F48(神経症性障害、ストレス関連障害) は原則として認定対象外である [27:rousei.biz]。
この区分は症状の重さや生活への影響度ではなく、診断書に記載されたコードのアルファベットと数字で機械的に判定される。社会保険審査会は神経症(F4)を対象外とする根拠として「自分で症状のコントロールができる可能性がある」ことを挙げているが [27:rousei.biz]、パニック障害で就労不能な人がコードのせいで門前払いされる構造的問題が生じている。
コードの誤記や記載漏れで不支給になるケースも報告されている [28:yokohama-syougai.jp]。医師が臨床では DSM で考え、行政手続き用に ICD-10 コードを「翻訳」して記入する二重構造がすでにある [29:nenkin.info]。
🔗 コードが支配する制度の連鎖
ICD コードに依存しているのは障害年金だけではない。精神障害者保健福祉手帳、自立支援医療(精神通院医療)、医療保険の診療報酬請求(レセプト)、厚生労働省の患者調査による疫学統計——すべてが ICD コードを制度インフラの背骨にしている。
米国でも事情は似ていて、HIPAA は2003年から電子取引に ICD コードを義務化した [30:psychiatry.org]。APA が DSM-5 でいくつかの診断カテゴリを再編したとき、「新しい DSM-5 の障害に対応する ICD コードが存在しない」問題が生じ、暫定的に近似のコードを流用する対応がとられた [30:psychiatry.org]。
⏳ ICD-11 移行の遅れが語るもの
ICD の改訂は単なる医学用語の更新ではない。レセプトのシステム改修、診断書様式の改訂、過去の統計との連続性の断絶、認定基準の書き換え——連鎖的なコストが発生する。
日本では ICD-11 が2019年に WHO 総会で承認されて以降も、「今後、我が国への適用に向けた検討をしてまいります」(厚生労働省)という段階にとどまっている。2026年現在、障害年金の診断書はいまだに ICD-10 コードで運用されている。
承認から長期間が経っても移行が完了しないこと自体が、診断名が制度に深く根を下ろしていることの証左だ。
🔄 ただし「変えられない」は過大評価
制度的慣性の分析はここまで述べてきた通りだが、「変えられない」と言い切るのはやや強すぎる。
実際に大規模な移行は過去に実行されている。米国では2015年10月に ICD-9 から ICD-10 へ切り替えられた。約14,000 の診断コードが約68,000コードに置き換わる大規模移行で、全医療機関・保険者のシステム改修を伴ったが、実行された [31:apaservices.org]。
日本でも ICD-10 への移行は2003年の統計分類改正で実施されている。
さらに印象的なのは、2002年の「精神分裂病」→「統合失調症」への呼称変更だ。日本精神神経学会の決議で実現し、スティグマ軽減を目的として制度的コストを社会が引き受けた事例である [32:jspn.or.jp]。
つまり正確に言えば、「変えられない」のではなく「変えるコストが高い」。そしてそのコストを社会が負担する政治的意思があれば変えられることは実証されている。問題は、うつ病の「病」の字にそれだけの政治的エネルギーを向ける動機が——今のところ——ないことだ。
🏷️ 診断名がつくということ——当事者にとっての功罪
ここまでは分類史と制度の話をしてきた。でも診断名は、学会の会議室や官庁の書式のなかだけで生きているわけではない。当事者の日常のなかに、毎日持ち歩くものとして存在している。
✅ 名前がつくことのメリット
Perkins ら(2018)のスコーピングレビューは、診断ラベルが当事者に与える影響を体系的に整理した。当事者個人の視点から報告された肯定的影響には、以下のようなものがある [37:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
説明モデルの獲得。 自分の状態に名前がつくことで、「何が起きているかわからない」という不安が軽減される。「怠け」や「甘え」ではなく、治療の対象になりうる状態だという認識が得られる。
制度へのアクセス。 日本の文脈では、うつ病(F32/F33)の診断名がなければ、障害年金も自立支援医療も精神障害者保健福祉手帳も使えない。診断名は文字通り社会保障制度の入場券である [15:mhlw.go.jp][27:rousei.biz]。
対人的な正当化。 職場への休職の説明、家族への状態の伝達において、「うつ病です」という名前があることで、コミュニケーションの足がかりになる。
周囲の共感の増加。 O’Connor ら(2021)の系統的レビューは、診断ラベルの存在が対象者への共感を高め、援助行動を増やす傾向があることを報告している [38:nationalelfservice.net]。最近の実験研究(2024)でも、軽度の精神的不調を呈する人に対して診断ラベルが付与されると、共感と治療推奨が増加することが再現されている [39:journals.plos.org]。
❌ 名前がつくことのデメリット
しかし同じ Perkins らのレビューは、当事者視点からの否定的影響も広範に報告している。レビュー対象研究の多くが、診断ラベルを受けた個人にネガティブな心理的影響——抵抗、ショック、不安、混乱、悲嘆、怒り——があったと報告している [37:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
回復期待の低下。 名前がつくと、「これは持続する状態だ」「自分ではコントロールできない」という認知が強まる傾向がある [39:journals.plos.org]。診断ラベルは、一時的な状態ではなく恒久的なアイデンティティとして経験される危険がある。
自己概念の変容。 「うつ病の人」として自分を再定義してしまう。できていたことまで「自分には無理だ」と思い始める。
就労・対人関係への波及。 雇用差別の懸念、保険加入への影響、人間関係における開示の困難。
🪞 セルフスティグマ——自分で自分にかけるレッテル
診断ラベルの最も陰湿な副作用が、セルフスティグマ(internalized stigma / self-stigma)だ。
セルフスティグマとは、精神疾患に対する社会的偏見を当事者自身が内面化し、自分に適用する過程をいう。「精神疾患を持つ人は弱い」という社会的ステレオタイプを認知し(stereotype awareness)、それに同意し(stereotype endorsement)、自分に当てはめて恥を感じる(shame)——この3段階で進行する [40:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
Livingston & Boyd(2010)のメタ分析(127研究)は、内面化されたスティグマが希望、自尊心、エンパワメントと強い負の相関を持つことを示した [41:sciencedirect.com]。つまりセルフスティグマが強いほど、回復への意欲と自己効力感が損なわれる。
Du ら(2023)は、うつ病当事者のセルフスティグマに特化した系統的レビュー・メタ分析を実施し、うつ病を持つ人がネガティブなステレオタイプを内面化するリスクが顕著に高いことを報告している [42:sciencedirect.com]。さらに、地理的な差異も大きく、アジア圏・中東圏で内面化スティグマの水準が高い傾向が示されている [42:sciencedirect.com]。
Baştürk ら(2024)のメタ分析はさらに興味深い知見を提示している:うつ病、統合失調症、双極性障害の3群間で、セルフスティグマの全体水準に有意差がなかった [43:ssrn.com]。つまり、社会的スティグマの程度は診断名ごとに異なる(統合失調症のほうが偏見が強い)にもかかわらず、内面化の深さは診断名によらず同程度だということになる。"Stigma is stigma" ——スティグマはスティグマだ、と著者らは題している [43:ssrn.com]。
🔄 「うつ病」という言葉の二重性
ここで、セクション1で述べた「disease/disorder」の問題に戻る。
最近の実験研究は、興味深い逆説を明らかにした。「depression(うつ病)」という語を含むラベルを用いた場合、その語を含まないラベルに比べて、症状が正当な医学的状態として認められにくくなるというのである [44:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。これは「depression」が日常語(「ちょっと落ち込んでる」)と臨床語(DSM-5 の MDD)の両方で使われることに起因すると考えられている [44:pmc.ncbi.nlm.nih.gov]。
「うつ病」という日本語もまた、「うつっぽい」「気分がうつだ」という日常表現と地続きだ。この意味の二重性が、当事者の症状の医学的正当性を掘り崩す方向に作用しうるという知見は、「病」の字がついていることの功罪を考える上で見逃せない。
⚖️ 功罪のバランス
名前がつくことは、制度にアクセスするための必要条件であり、経験に説明を与える手段であり、同時にアイデンティティを固定する枷でもある。
この構造のなかで当事者は、名前の恩恵を受けながら、名前の重さに耐えている。そしてその名前が——ここまで見てきたように——科学的にも制度的にも簡単には変えられないものであるという事実が、この緊張をさらに複雑にしている。
🤷 結局うつ病ってよくわかって……いないわけでもない
ここまでの話をまとめると:
- うつ病は「disease」ではなく「disorder」として定義されている。ただし、その区別自体が絶対的なものではない。
- 確定診断の生物学的マーカーは存在しない。ただし、これはうつ病に固有の問題ではなく、片頭痛・IBS・線維筋痛症など多くの疾患に共通する。
- 症状プロファイルの異質性は高い。ただし、多項式定義ならどれでも同様の問題が生じうる。
- 制度が診断名の変更を構造的に阻んでいる。ただし、政治的意思があれば変更は不可能ではない。
「よくわかっていない」と締めくくりたくなるが、これも一面的ではある。
生物学的知見は「ゼロ」ではない。 Wray ら(2018)の GWAS メタ分析は、44 の有意な遺伝子座が MDD と関連することを同定した。効果量は小さいが、MDD が多遺伝子性(polygenic)の生物学的基盤を持つことは確認されている [33:doi.org]。
炎症仮説もエビデンスが蓄積されている。Osimo ら(2019)のメタ分析は、MDD 患者で CRP、IL-6、TNF-α などの炎症マーカーが有意に上昇していることを確認した [34:doi.org]。
神経回路レベルでは、Drysdale ら(2017)が fMRI データから4つの神経生理学的サブタイプを同定し、それぞれが異なる TMS 治療反応性を示すことを報告している [35:nature.com]。
「よくわかっていない」のは「何もわかっていない」のとは違う。病因の全体像が統一的に描けていないことと、個々のメカニズムについて知見が着実に蓄積していることは両立する。
🗺️ おわりに——地図を描きながら歩いている
Kendell & Jablensky(2003)はこう述べた:現代の精神疾患の大半は、厳密な意味での「妥当な疾患カテゴリ(valid disease categories)」としてはまだ確立されていない。しかしそれは、これらの概念に価値がないことを意味しない。妥当性(validity)と有用性(utility)は区別されなければならない [36:psychiatryonline.org]。
うつ病は130年以上の分類史と膨大な研究にもかかわらず、「なぜこの症状群が共起するのか」「何がその根本原因なのか」に決定的な答えが出ていない。現在の診断体系は、病因の完全な理解ではなく、臨床的有用性——「この名前をつけることで治療計画を立てやすくなる」——に基づいて維持されている。
そして「うつ病」という名前は、科学的根拠だけでなく、制度的ロックインによって固定されている。障害年金のコードから診療報酬のレセプトまで、ICD コードが制度インフラの隅々にまで埋め込まれているがゆえに、名前を変えることのコストは科学の側からは見えにくいほど巨大だ。
我々は、地図が不完全であることを知りながら、その不完全な地図で歩いている。地図の書き換えが必要なことは多くの研究者が認識している。ただ、書き換えるためには科学だけでなく、制度と社会の側がコストを引き受ける覚悟がいる。
それは「うつ病」に限った話ではないかもしれない。でも、「病」の字ひとつが制度に焼き付いて動かなくなっている構造を見ると——科学の名前は、科学だけでは決まらないのだと、改めて思う。
📚 参考文献
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